花と嵐

□千客は万来する
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 穏やかな日差しが梢に遮られ、薄暗い山道がある。だが、人が通るには足場も悪く、草根や木々の間を縫う様に細く狭い。
 つまりは獣道で、誰一人通るものはいなさそうなそこを、女が一人、歩いていた。

 女は、菊塵色(きくじんいろ)の小袖を身に付けている。灰を被った様な緑のそれは周りの木々や草葉が作る景色に溶け込み、頭を包む布や覗く首筋、そこに続く面輪がいっそう白く浮かび上がっていた。
 女人の脚では歩きづらいだろう獣道を、その女は滑るように静かに、速く、歩いていく。白い上に大層整った目鼻立ちが作る表情も涼しげなもので、ともすれば女はまるで山の精か何かの様であった。

 何時までも、何処までも歩いていきそうであった女は、然し、徐に立ち止まった。
 長い睫毛が縁取る、切れ長な眼の中の、ぬばたまの様に艶やかに黒い瞳が、ゆっくりと動き、その動きに合わせる様に、女は静かに背後を見返った。

「……山犬か、それとも蛇か。何か御用事がありますれば、姿を見せなさいませ」

 花弁を並べた様な唇が、放つその声は淡々としていたが、何処か冷たい。
 女が見つめる先、木立の影の、その奥。少しの間を置いて、微かな葉擦れと共に、一人の若者が、影の内より静かに現れた。

「……失礼。斯様な麗しい方が、この道をお一人で、と不審に思い、後をつけさせて頂きました」

 女に負けず劣らず白い肌。真っ直ぐな黒髪を肩に流した、線の細い、白鷺の様に優美な青年である。

「この道を選び、なおかつ私に気付いておられた……とくれば、そちらは忍の者とお見受けいたします」

 話し方は容姿に違わず丁寧であったが、鋭さのある釣り気味の目が、微かに荒んだ空気を纏っていた。

「そう仰るそちらも、忍でございましょう」

 女は口許にあるかなしかの淡い笑みを結びながら、穏やかにそう青年に返す。

「ええ。そして、どうやら、我々は目的とする場所が同じ様に思うのですが」

 青年が、少しずつ歩み寄りながら言う。

「ええ、その様ですね」

 青年の醸し出す微かに張り詰めた空気に気付いているのかいないのか、女は尚も穏やかに答えた。

「どちらの何方か、お伺いしても?」
「あら、まあ」

 青年の問いに女は緩く首を傾ける。

「その方が『どちらの何方か』存じ上げませんのに、答えるとお思いですか」
「……それは失礼」

 青年は、ふと苦笑を浮かべる。
 風が吹き、青年の苦笑の上に、女の凪いだ表情に、ちらちらと金粉の様に木漏れ日が舞う。

「どうも、愛しい古巣を前にしますと、何かと気が急きまして」
「古巣」
「はい……私は忍術学園の卒業生、立花仙蔵と申します」

 青年がそう名乗って、頭を下げれば、肩にかかった黒髪が上等な絹糸の様に流れる。
 女は、それを目で追い、それから長い睫毛を伏せる。白い頬に淡い影を落として、静かに何かを思案しているようだった。

「……私は、さく。と、申します」

 薄く開いた唇から、小さな声が青年に名乗った。
 瞼を上げ、青年を、目的の地である忍の学舎の卒業生、立花仙蔵を見返す。

「黄昏時は、忍軍忍組頭が妻にございます」

 やにわにその場に固まり、軽く目を見開いた仙蔵を置いて、さくは踵を返し、再び滑るように獣道を進みだす。
 仙蔵は、暫し呆けてその山の精の様な煙る緑の背が遠ざかるのを見ていたが、やがて彼もまた彼の言うところの『愛しい古巣』へと歩みを進みだすのであった。





 逢魔ヶ時領の一角、半湿地の草原の、葦の群生に隠れるようして、小さな禅寺がある。
 その寺の、宿坊の一室で、熱心に薬研を転がしている青年。行者の白装束に身を包み、やや癖のある髪を背中に無造作に垂れ流している。
 釣り目がちで、ともすれば猫や蜥蜴のそれを思わせるぎょろりとした眼をしていたが、全体的には可愛らしい、人の良さげな印象を纏った顔立ち。

 その、青年、善法寺伊作は、薬研で擂り潰したものを別の薬種が入った乳鉢へといれ、ふと、手を止める。

 振り返った、部屋の戸の、閉ざされた先に近付く気配。

 二人、いるな。
 と、伊作は、戸を見ながら思う。

「善法寺殿」

 程なくして、戸の向こうから、寺の雲水の声が、伊作を呼んだ。

「はい。どうされましたか」
「お客人が、あなたの薬が欲しいと参られました」
「ああ、今出ます」

 近くの市か村の者か、もしくは鉱夫かだろうと、伊作は、髪を結わえながら戸を開けようと立ち上がる。

 そして、はたと固まる。
 彼の鼻に、微かに引っ掛かる、火傷の薬の匂い。

 予感と共に、開けた戸の先では、雲水の後ろに、随分と背の高い大男が立っている。

 顔を隠す頭巾の奥で、男の、包帯に隠されていない右目がゆっくりと細くなる。

「……包帯を、少し貰えませんかね」

 そう笑いを混ぜた声で言った男に、伊作は苦笑めいた曖昧な表情を浮かべるのであった。


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