さて、月霞むその夜を抜け
□奇妙な拾われもの
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六年い組の潮江文次郎はこの日、鍛練中に少々厄介な痛め方をした腕の治療の為に保健室を訪ねていた。
保健委員会委員長、六年は組の善法寺伊作にくどくどと小言を貰いながらも、治療を済まし、伊作と保健医の新野洋一に礼を言って立ち去ろうとした折りである。
「すみませんっ!!急患お願い致しますっ!」
大音声と共に勢い良く開け放たれた戸。其処に立つ四年ろ組の編入生、浜守一郎の姿に、文次郎は微妙に腰を浮かした姿勢のまま目をすがめる。
「急患って……この方は、っ、新野先生!」
「ええ、酷い怪我だ……一先ず此方へ」
空かさず反応した伊作と新野の手に、守一郎が担いでいた女が渡る。
血と泥土がこびりついた衣服は、樺茶色の忍び装束だ。
文次郎は浮かした腰を上げて、部屋の隅にどさりと倒れ込む様にして座り込んだ守一郎の元へと向かう。
守一郎には別段外傷は見られない、故に、この女と戦闘をしたとは考えにくい。疲労困憊の様子は恐らく此方に至るまで担いで来たからであろう。「おい、」と声を掛ければ、汗を拭いながら此方を見上げる。文次郎はその前に座り込んだ。
「あれはなんだ」
「え、えっと……外出の帰路にて拾いました」
文次郎の眉間の皺が一本、二本と増える。
「一体何処で見つけてきた。あれはどう見てもくノ一じゃねえか」
然も、負傷、恐らく戦闘による負傷を負ったくノ一である。
「あ、潮江君。いたんだ」
ふと、剣呑な空気を割り破る様なのほほんとした声に、文次郎は口中に苦いものを覚えながらその声の主を見上げる。
同い年の後輩、四年は組の斎藤タカ丸は文次郎の想像の範囲には凡そ存在しない様なほやんと呆けた顔で此方を見ている。
「いちゃ悪いか」
「いや、そうは言ってないけど珍しいなあって」
「俺とて怪我ぐらいはする、お前ほどじゃないがな」
嫌味皮肉を言っても、当の本人は変わらずほややんと、何処か感心した様な眼差しで繁々と文次郎の左肩を見てくるものだから、文次郎は込み上げる溜め息を口の端しから少しだけ洩らす事になった。全く持って、調子を狂わす男である、と。
その時だった。
微かな衣擦れと畳を掻く音に、文次郎の身体は無意識に反応する。
「あっ!?駄目です、何をっ、」
「動いてはいけません!」
伊作と新野の声とほぼ同時に文次郎の視界は反転する。引き倒されたと理解すると共に己の身体を乗り越える樺茶色の影を目で追う。
女は守一郎へ向かった。
何事かをひび割れた声でぶつぶつと言いながら守一郎を床に押さえ付けるのを見て、文次郎は舌を打つ。
やはり厄介事の始まりでは無いかと、一先ずは守一郎から女を引き離そうと飛び起き、女の肩を掴む。
「おい、女っ!!いきなり何、をっ!?」
脇腹に衝撃、遅れてそれをもたらしたのが女が繰り出した蹴りだと分かる。
そう、遅れてだ。先程もそうだった。
文次郎が後手に回っている
女の動きは極端に予備動作が少ない。
それなりの手練れかと、文次郎は第二撃の蹴りを受けながら思う。
体勢を立て直す間が無かった為に、床にあるものを蹴散らしながら、よろけつつも間合いを取ろうとした。
ガタンと、肩に何かが当たる。薬棚だ。衝撃で上から色々と落ちて来た。また伊作に小言を言われる。と、文次郎はふっと息を吐く。
乱れた髪の隙間から見える女の眼差しは虚ろだ。我を失っているようにも見受けられる。
然しだ。
女が懐から取り出した懐刀を見て、文次郎の表情は格段に険しくなる。
例え忘我の内であろうと、殺傷力のある武器を持ち出した時点で此方に明確な敵意があると、文次郎はそう捉えた。ならば、己がやるべきは只ひとつである、と。
「伊作、下がれっ!!」
今にも女の元へ駆け寄りそうな同輩を諌め、文次郎は床を蹴りあげる。
同時に飛び出して来た女の腕を掴み、勢いに乗せて降り倒した。
女の動きは先程よりも粗雑になっている。此ならば抑するに容易いと、文次郎は倒した女の襟首に腕を押し込み体重を掛けて一気に畳み掛けた。
ブツンと、肌を走る熱。然し、文次郎が気に止めたのは襲いかかってきた刃よりも、それを持つ女の腕の向きである。
女が取らされている体勢からは到底有り得ない軌道と動きだった。
腕を外したのか。文次郎は先程よりも大きく舌打ちをした。
懐刀を持つ腕を強かに床へ押さえ付ければ、女は凄まじい唸り声を上げる。当然だ。外した腕を押さえ付けられたのだから痛みは相当の筈。
然し、尚も女はもがき続けている。
此れは正しく手負いの獣そのものだ。額に汗が浮くのを感じながら文次郎は部屋の隅にへたり込んでいる後輩の内の一人に目を向けた。
「おいっ!斎藤!!ボサッとしてねえで誰か呼んで来いっ!」
その声に弾き飛ばされた様にタカ丸は立ち上がった。
「あっ、う、うん!!」
転がりながら廊下に飛び出したタカ丸のでけでけとした足音が遠ざかるのを聞きながら、文次郎ははっきりと溜め息を吐くのだった。
さて、と、女を文次郎は見下ろす。女が何者か分からぬ内は手加減をせねばならぬのは分かるのだが、こうも形振り構わず暴れられてはそれも難しい。
女が立てる唸り声に混じって、ふと密やかな衣擦れの音がする。
「新野先生、」
新野は文次郎にしっかとひとつ頷き、「そのまま押さえていてください」と囁くように言った。
そろり、そろりと新野が女に近付いていけば唸り声は益々激しくなる。
「……大丈夫です。貴女の敵は何処にもいませんよ」
新野の囁く声は女の唸り声に掻き消されている。
無駄だ。届いてないと、文次郎は女が逃げ出さないように腕に力を込める。
どうするのかと思っていれば、新野の手がやにわにさっと伸び、女の顎を掴むや否や口と鼻に布を押し付けた。
「大丈夫、大丈夫ですよ、」
女は一瞬、激しく暴れたが、やがてかくんと全身を弛緩させ頭を床に落としたのだった。
「さあ、善法寺君。今の内に治療してしまいましょう」
「はい」
文次郎が女から身体を退かせば、空かさず新野がそれを抱き上げ再び畳の上へと女を横たえるのだった。
「有難う御座いました潮江君、助かりました」
「いえ……。今のは?」
「ちょっとした眠り薬です。然し、良く此れ程の傷で……」
文次郎もそれに同意の頷きを返す。女の背中には大きな刀傷まであったのだ。幾ら忘我の内だったといえ、あの動きは尋常では無かった。
文次郎は左肩を確かめる様に回す。幸い、更に痛めるという事はなかった。それから、背後で手持ち無沙汰な風情で部屋の片付けを始めた守一郎に目を向ける。
「浜、俺の質問にまだ答えていないぞ。一体何処でこの女を拾ったんだ」
「あ……はい」
守一郎は部屋の端まで転がった鍋を拾い上げながら少しうろっと目をさ迷わせる。
「えっと……ホドホド城跡の付近です」
「何だと?」
文次郎の目が微かに見開かれる。
同時に、開け放たれたままであった保健室の入口に新たな人物が二人立った。
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