さて、月霞むその夜を抜け

□信頼と混乱
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 なんだか煩いぞ。

 と、浜守一郎は思った。

 煩くて目が覚めてしまった。と、ぼんやり瞼を持ち上げれば、ズキンと走る鋭い痛みに小さく呻いた。
 痛みのもとを探して無意識にさ迷った掌が触れたのは側頭部。
 指に当たったややごわりとしたものはそのまま守一郎の額にまで回ってる。
 ああ、包帯か。と、守一郎は思い、其処から一気に覚醒が進む。

 そうだった。小松田さんに入門表で頭を、それから三木ヱ門の春子から水が……あの人は、

 あの人はどうなった。

 ズキンとまた走る痛みに顔をしかめながら、守一郎は少し身を起こす。其所に影が被さった。

「守一郎っ!ああ、良かった!!」

「……う、滝夜叉丸」

 あまり耳元で大声を出さないで欲しいと思いながらも、煩いのは自分を覗き込む同輩、四年い組の平滝夜叉丸だけではなかった。
 滝夜叉丸に支えられながら半身を起こしてみれば、そこは保健室で、部屋には凡そ四つの塊が出来上がっていた。
 一つは部屋の端、六年の先輩三人、ろ組の七松小平太、は組の食満留三郎、い組の潮江文次郎、それに守一郎と同級の田村三木ヱ門が身を縮めるようにした正座でい並び、その前で仁王立ちする六年は組の善法寺伊作にくどくどと説教をされているのである。
 守一郎からは、辛うじて伊作の鼻梁の端が見える程度なのだが、その声色と立ち上る雰囲気から、見えぬ表情は恐らく般若の形相ではないだろうかと思った。
 そんな伊作を、同じく六年の、ろ組、中在家長次、守一郎の同輩、は組の斎藤タカ丸がまあまあと宥めており、そこから少し離れた所で六年い組の立花仙蔵が静観の体を決め込んでいた。
 立花の背後では、五年生五名が塊を作り、何事かを話し込んでいる。
 そして、部屋のもう一方の端の塊は、事務員小松田秀作が、三木ヱ門らと同じ様に正座で縮こまり、同じく事務員の吉野作造にガミガミと説教され、その周りではタカ丸らと同じ様に数名の教員達がまあまあとそれを宥めていた。

「こらっ!五年生!!くっちゃべってないでこいつらを帰らせんか!!」

 四つ目の塊は、開け放たれた保健室の戸付近だ。五年い組の実技担当教師、木下鉄丸が五年生に激を飛ばす向こう側に様々な色の制服が見える。
 守一郎が見る限りにはほぼ全学年の生徒が集まっているかの様に見えた。くの一教室の少女達も其所にいる。
 前列の者達は、それはほぼ一年は組であったが、部屋を覗き込もう、踏み入れようと躍起になっており、後ろの者達も皆飛び上がったり肩車をしたりと大騒ぎである。

「怪我人がいるんですよ、皆さんお静かに!」

「一年は組!!帰るんだ!」

 それを抑えているのは、木下と、一年は組教科担任、土井半助、養護教諭の新野洋一である。
 姿は見えないが「い組のよい子達は早く帰りなさい!」という一年い組教科担任の安藤夏之丞の声や、「二年生!お前達も教室で自習だっ!!」という二年い組実技担当、野村雄三の声もする。

「こりゃ抑えられませんよ、学園長先生」

 その声に、守一郎が視線を巡らせれば、部屋の奥の角に、もう一つの塊があった。
 いや、塊と呼ぶにはそれは細やかなものである。
 一年は組の教科担当教師、山田伝蔵の険しい横顔、そこから少し離れた所に、学園長、大川平次渦正の横顔。
 そして、大川平次の前に、布団に半身を起こしたやや俯き加減の少女。その身体を、くの一教室担当の山本シナが支えている。
 ああ、彼女も無事だったのか、と、守一郎は胸を撫で下ろした。
 その様子を見た滝夜叉丸は、眉を潜めながら密やかな声で話し始めた。

「三木ヱ門がぶっぱなしたのは水だったのだ」

「水……?石火矢で?」

 無理では無いのかと守一郎は思ったのだが、滝夜叉丸が言うには全く出来ないことでも無いらしい。

「七松先輩は、彼女を殺すつもり等はなかった、が、結果としてお前も彼女も水浸し……更に言えば、彼女は傷を再び開かせてしまったし、お前は運の悪い事に小松田さんに入門表で頭を……」

 ああ、そこまでは分かる。甦る記憶と共に頭にまた鈍い痛みが走った。

「あれは……?」

 部屋の入り口に目を戻せば、木下が、制止を掻い潜ろうとした三年生の誰かを放り投げている。

「…………あの派手な追走劇が、どうやら全学年の目に止まってしまったらしい。お陰で大混乱、といった所だな」

 つまりは、野次馬、という訳か。
 守一郎は溜め息を一つ、再び部屋の角へと視線を戻す。
 仰天同地の騒がしさの中で、其処だけは唯一、静まりかえっている様に守一郎には見えた。
 部屋の角はほの暗い。そのほの暗い中に、少女の顔と、老翁の顔が浮かぶ様がまるで一枚の画図の様であった。
 その、老翁、大川平次は何かをぼそぼそと少女に語り掛けながら、折った膝の上で何かをしている。
 周りの騒がしさのせいで、その嗄れた声が何を言っているかは守一郎の耳には聞き取れない。
 目を眇て見る。
 大川平次が、少女に何かを差し出した。

 それは、半分に割られた饅頭であった。





「お前ら良い加減にせんかあああっ!!五年生は聞いとるんかっ!!」

 木下の一際大きな怒声が響き渡り、その迫力に、入り口の野次馬のみならず説教、談合に耽っていた部屋の者達までもがシンと静まりかえった。
 守一郎と、引き釣った表情の滝夜叉丸からはその顔は見えないが、五年生達の青ざめぶりからして、木下の顔面には怒りの四つ筋が普段の倍程はできているのだろう。

 水を打った様になったその場に、ふと、衣擦れの音がする。
 見れば、あの少女が大川平次に手を引かれよろよろと立ち上がっていた。
 そうして、まだ何処か夢の内にいるかの様にぼんやりとした少女の横顔が、守一郎の横を通り過ぎる。そのやや筋の張った固そうな手には、半分の饅頭がそっと包まれていた。

 大川平次は、そのまま少女と共に、部屋の入り口の前へと立つ。
 生徒達、教員はそれをただ黙って見詰めていた。
 守一郎は、ぐるりと見渡す大川平次の手にも饅頭の半分が掴まれている事に気づく。そして大川平次のもう片方の手は少女の手を包むように握っていた。

「皆、揃っておるな」

 先程の嗄れた声からは一転、朗々と響き渡る声に、集まっていた者達の背筋が僅かに伸びる。

「この者は、湊川オウギ殿。新しく来たお手伝いさんじゃ!」

 朗々とした声ではあったが、その音は何処か惚けて聞こえる。
 その宣言が、静まりかえった辺りにほんの僅かに反響を残して、消えた。

 暫し、沈黙……。






「「「……えええええええええええっ!!!?」」」

 その場にい会わすほぼ全員の綺麗に揃った驚愕の声が学園に響き渡った途端、再び其処は、仰天同地の渦に変わっていったのであった。


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