さて、月霞むその夜を抜け
□選ばれた理由
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気が付けば、また天井を見ている。
彼女、湊川オウギは、己の息がその見知らぬ天井へと吸い込まれる感覚を覚えてぐっと目を閉じた。
此処に至るまでの全てが怒涛に過ぎて、閉じても尚目眩を覚えるほどである。
オウギの眉間には否応なしに皺が寄る。初めに此処で目覚めた時より傷口が深い気がする。当然か、と、目を薄く開き、息を吐いた。
脱出の為にあんな大立回りをした上に失敗。その後に相手の小平太という青年に無理矢理に担がれてと、無駄な酷使が多い。なのに、何一つ物事は進まない。
あの時、小平太に口を塞がれ、担ぎ上げられた時はとうとう殺されるかと思ったのだが、こうして再び手厚く看護された上に生きている。
忍は生き抜く事が最優先だ。だが、オウギにとって、今の此れは手放しに喜ばしい状態とは言えなかった。
此処にいる忍達は、オウギが七十年前の過去より来た人間であると、訳の分からぬ事を言う。
オウギはその様な事がある筈無いと思っているが、いるのだが、大川平次渦正を名乗る老人の、あの言動、踏まえて振り返ればその面影に、どうにもあの剽悍な豺めいた青年が重なるのは確かだった。
大川平次渦正、を、名乗る老人は、脱出に失敗し再び目覚めたオウギに、半分に割った饅頭を差し出したのだ。
そして言った。
「あの日の恩を漸く返せる。今度は、どうか儂に拾われて欲しい」
その行動と言葉は、大川平次渦正でなければ出ないものである。
大川平次渦正は、路頭に迷って飢え死に掛けていた外れ者の忍だった。それをオウギが拾ったのだ。一年程前の話だ。そして、彼がマツホドを去って半年ばかしか。
少々融通の効かぬ事と少々運に恵まれていない事を除けば恐ろしい程に腕の冴えた男であったから、きっと何処へ行っても逞しく生きている事だろう。その、大川平次は、別れ際に「この恩は何時か必ず返す」と言ったのだ。
自分はそれにどう返事を返したっけか、と、オウギは寝返りを打つ。引き釣る痛みに沸く呻きを絶えれば、喉の奥が締まり咳き込み、余計に痛い。
そして、だ。と、オウギは咳に背中を丸めながら考える。
そして、あの武器。
二藍色の装束を着た少年が用いていた見慣れない大きな武器から、大音量と共に尋常では無い威力で襲い掛かってきた水。あの様なものは始めて見る。銅で作らせた筒の様にしか見えないのだが、はて。
小平太は、火薬を使うのだと言ったが、火薬をどの様に使えばああなるのか、全く見当が付かない。そもそも火薬自体、馴染みが薄い。先の都の大乱で使われた事は伝え聞いているし、更に昔に高麗国が襲来した折りにも火薬を使った武器が用いられたことを書物で読みはしたが、オウギ自身は扱った事など全く無いのである。
オウギは城務めの戦忍だ。火薬が威力の強い事は理解するが、山城を守る山間の戦闘や暗殺に於いて、只でさえ扱いの難しい火薬を使うなど非効率である。使う必要も、知る必要も無いものだ。
あの小平太と一緒にいた男は、忍が火薬を知らぬ等有り得ない様な口振りだったが。
全く以て、訳が分からない。
また息が逸り、詰まるような感覚が戻ってきてオウギは口に寝巻きの袂を押し付け息を整える。
小平太は、自分を狂い女で無いかとも言った。いっそのこと狂ってしまえば、いやもう狂っているのかもしれない。
袂を息で湿らせるオウギの眼は、きろっと動いて、天井を睨む。
手厚く保護されながらも、監視されている。
まるで、稚児に掴まえられた虫の気分だ。
生きていて、どうやら今は切迫する危険は無いようであるのに、下手な拷問よりも、蝕まれている。
無意識に舌を噛んでしまいそうで、オウギは口に袂を押し込んだ。いっそ殺せと言ってしまいたいが、オウギは忍だ。そして預かった務めがある。
胸元に下げた鏡を握り込んだ。
思考は一度放棄する。
今は、回復を優先する。
オウギは目を閉じた。
目を閉じて、オウギは意識的に身体を弛緩させ、眠りが訪れるのを待つのであった。
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