さて、月霞むその夜を抜け

□噛み合わない青年
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 身体が重く、視界は不明瞭に暗い。

 己が立っているのだという事は分かる。だが、何処に。

 彼女は首を巡らせる。
 周囲は静かだ。
 自分が立っている周りには、闇の中に尚暗く浮かぶ木々の形。

 風に、葉が揺れている。
 足元を、草が揺れている。
 彼女はそこで初めて違和感を覚える。そしてそれは間を置かず不快感に、不快感は、不安感へと変わる。

 音がしないのである。
 揺れる草の音も、ざわめく木々の音も、吹きすさぶ風の音も。
 逸る己の息すらも。
 聞こえない。
 何も、だ。
 彼女は、叫んだ。のだと思う。
 それも、聞こえない。

 彼女、湊川オウギは其処で覚醒した。
 己の手が掴んでいるものが布団であると気付くと同時に、飛び起きたのだという事も理解する。
 は、は、と、荒い自分の息の音。ちゃんとする。確かめるように耳を傾けた。汗が酷い。顔を拭えば、衣擦れの音がする。
 それに面白い程に安堵したオウギは漸く、誰かが部屋の中にいる事にも気付く。

「あのぉ……大、丈夫?」

 目の端に映った二藍。ふわふわとした声にオウギが顔を上げると、其処にいたのは、彼女が記憶する限りでは、此処で最初に目が覚めた時に見た顔の一人であった。

「叫んで飛び起きるんだもん。お水飲む?手拭いもあるよぉ」

 やはり自分は叫んでいたのか。と、オウギが先程の夢を思い、ぼんやりとしていれば、ふと目の前に絞った手拭いを差し出されてぎょっとする。

「ああ、ごめんね驚かして、此処に桶も置いておくから身体を拭いていいよ」

 青年の笑顔は日向に微睡む猫の様だ。長閑な見た目とは裏腹にてきぱきとした仕草で水を張った桶をオウギの側に置くと、衝立も引き寄せ、自分はその向こうへと行くのだった。

「できたら言ってねぇ」

 ふわふわとした声が衝立を通して此方へ飛んで来る。オウギは思わず頷いたが、青年には見えない事に思い至り、少し迷った末に「分かりました」と、細い声で返した。
 てきぱきとした仕草、ではあったが、青年のそれは修練を重ねた手練れというよりも、普通の、何処にでもいるような働き者の青年といった感じであった。身のこなしも、特に武に秀でている様には見えない。
 忍装束を着てはいるが、この青年は恐らくオウギの様な戦忍とは違う類いの者なのかもしれない。

 その様な事を考えながら、湿した手拭いで身体の汗を拭き取り、着乱れを正して、終わったと声を掛ければ青年は衝立からひょこっと顔を出すのだった。

「お茶にしてみたよ。どうぞ」

 そう言って差し出されたのは暖かそうな湯気の立つ湯飲みである。
 そして、オウギはまたも思わず、それを受け取っている。
 暖かいそれに触れると、強張った指が緩む様だった。小さく息を吐けば湯気が揺れる。
 その目の端で、青年が何か細々とものを並べ出しているのが見えて、オウギはまた顔を上げた。

「あっ、そうだ。名乗ってなかった」

 目が合えば、青年はぱっと目を瞬きながらそう呟きちょんと姿勢を正した。彼の揃えた膝の前に並べられていたのは櫛や鋏や笄等々。

「四年は組の斎藤タカ丸です。初めまして」

「……よ、ねん」

 今まで数名の者が名乗って来たが、皆、六年だとか、委員長だとかを着けるのである。首を傾げれば、青年も同じように首を傾げる。

「んー……伊作君とかが説明してないのかなぁ?此処はね。忍術学園って言って忍者の学校なんだよ。一年生から六年生まであって、俺は四年生」

「学校……」

 そう言えば、伊作と言う最も良く顔を見る青年がそんな事を言っていた様な気がする。オウギはゆるゆると曖昧に頷いた。

「聞いた、気がします。……だから、子どもがいたのですね」

「子ども?」

「水浅黄に、井桁模様の、」

「ああ、一年生だね。最初に会った子達の事なら一年は組。学園一番のお騒がせ組だよ」

「一年、は組」

「そうそう。学年にはそれぞれ、い組、ろ組、は組の三つの組があるんだよ。俺はさっきも言ったけど四年は組ね」

 タカ丸の口調や仕草は自然そのもので嘘を言っている様には見えなかった。そも謀る理由というものも無いようには思う。
 湯飲みを見下ろした。
 迷った末に、一口飲む。
 碌に物を食べていない胃に、それはじわじわと染み、オウギは小さく唸った。

「あっ、熱かった?」

 やにわに、タカ丸が腰を浮かしてオウギの様子を覗き込む。
 大丈夫だという意味を込めて首を横に振れば、「良かったぁ」と、安心した様に息を吐きながら笑うのだった。
 忍としては、あまりにも他愛ないそれに、妙に毒気を抜かれる気分で、オウギは彼から目を逸らした。

「えっと、オウギちゃんって呼んでも良い?」

「……は?」

 だが、タカ丸の発言に、逸らした目を間を置かず戻す羽目になった。

「ちゃ、ちゃん……?」

 生まれてこのかた、その様な呼ばれ方などされた事がない。
 面食らって、首を傾げれば、またもやタカ丸も同じように首を傾げる。

「嫌?同じ年頃みたいだし……幾つ?」

「……十四になる」

「あ、じゃあ俺より一つ年下だぁ」

 何を笑っている。何がそんなに嬉しいのか。ひたすらに面食らっているオウギを他所に、タカ丸はにこやかに、「よろしくね、オウギちゃん」等と宣う。
 オウギはまだ許可していないのであるが、タカ丸の中ではもうそう呼ぶと決め込んでしまった様だ。
 オウギは妙な眩暈を覚えて、力なく湯飲みを脇に置くのだった。

「じゃ、オウギちゃん」

「……何でしょう」

「早速だけど、髪触っても良い?」

「は?」

 もうこれ以上面食らう事はないと思ったのに、再び呆けてしまった。
 タカ丸は櫛を片手に、ふわふわとした笑みを浮かべてオウギを見ている。

「何故、」

「それは、俺が元髪結いだから!」

 答えになっていない。と、オウギは思う。後、何故そんなに誇らしげなのか、とも。

「髪にまだ土埃とか血とか着いたままだからちゃんと落としておかないと痛んじゃうよ。ね、俺に任せて。絶対綺麗になるから!」

「……いや、その、」

 真剣な表情で詰め寄ってきたタカ丸に思わず布団から這い出ながら後退る。後退りすればその分、また詰め寄ってくる。
 何故そんな必死なのか、オウギには皆目分からない。こんな男には今まで会った事が無い。
 とうとう壁際まで追い詰められた。
 相手に追い詰められる等、あまりに久方ぶりで、オウギの視界はまたもくらくらとする。考えが纏まらない。とにかく、このタカ丸という青年、オウギには理解不能である。

「ねえ、このまま痛んじゃうなんて元髪結いとしては許せないんだ。お願いします!結わせてとは言わないから責めて土と血は落とさせて!!」

「あ、わ、分かり、ました」

 壁際に追い詰められた状況に混乱して、とうとう訳の分からぬままに、オウギは頷いてしまうのであった。


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