さて、月霞むその夜を抜け
□噛み合わない青年
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取り敢えず、その近過ぎる間合いをどうにかして欲しいオウギが訳の分からぬままに頷いてしまえば、タカ丸はぱっと花が開いた様に笑顔になった。
「良かったぁ、あ、じゃあ、こっちに来て座ってくれる?」
「うぇっ、」
妙な声が出た。
腕を引いてきた上に肩に置かれたタカ丸の手のせいだ。
その手に促されるままに、オウギは布団の上へと座らされ、膝には掛け布団を、肩には羽織を掛けられる。
「まだ怪我治って無いよね。姿勢が辛かったら言ってね」
そう言うや否や、タカ丸はオウギの背後から髪の束を持ち上げ、彼女の肩は大袈裟に震えた。
「あー、やっぱりちゃんと落とせてないね」
タカ丸の指が、オウギの髪を鋤く。土埃を払うだけの仕草だが、他人に髪を触らせた事など殆ど無いオウギの肩は震える事は無いものの、硬く強張っている。
そも背後から首筋に気配があるなどという状況自体が落ち着かないのだ。
「あ、痛い?」
オウギのあからさまな緊張をタカ丸はそう捉えた様だ。
痛い訳では無い。オウギが曖昧に首を横に振れば「痛かったら遠慮無く言ってね」と止めた手をまた髪に通しだす。
痛いと言えば、止めて貰えたのだろうかと、オウギがぼんやりそんな事を思っていれば、チャプ、と、水の音がした。
音の方に目を向ければ、タカ丸の手に持つ櫛から水が滴るのが見えた。
「ちょっとだけ髪濡らすね」と、タカ丸は一言、オウギの髪を持ち上げて彼女の首回りに手拭いを掛ける。
そうして塗らした櫛を少しずつ、細やかに過ぎるのでは無いかと思う程に少しずつ、彼女の髪へ通していく。どうやら、血で固まった所を解しているらしい。時折、チャプンと、櫛を桶で洗う音がする。
最初こそは緊張しかなかったオウギも、その極めて丁寧かつ他意の無い動きに少しばかし警戒を緩ませる。タカ丸の手付きはあくまで髪結いの仕事をするそれとして抑制されてはいたが、事務的な冷たさは無い。
「痛んでいる所、少し切るね」
了承も取らず、その宣言のみでタカ丸は鋏を扱いだした。
直ぐ背後に刃物、と、流石に一瞬身構えたが、タカ丸は相変わらず殺気の欠片も感じさせないので、結局オウギはさせておく事を取った。
我ながら気が緩んでいると、オウギはそろり、息を吐く。
「俺さ、祖父が穴牛で、俺の家が髪結いじゃなくて元は忍者の家だってのは最近知ったんだよね。だから本当は六年生の年齢だけど、四年に編入したんだ」
鋏と櫛を扱いながら、タカ丸はオウギに話し掛けている。いや、オウギが返事をしなくとも話し続けているから、独り言と言っても良いのかもしれない。
「一年生が十歳だから、四年生は十三で六年生は十五なんだよ。六年生はプロにも近い実力者なんだ。だから、それと互角だったオウギちゃんは凄いよね」
「……松葉色の?」
「あ、うん。そうそう。学年毎で制服の色が違うんだよ。オウギちゃんを追い掛けてた垂髪が獅子みたいなのが七松小平太君、短い茶筅髷が食満留三郎君。同じ茶筅でもちょっと痛んでて隈が凄いのが潮江文次郎君」
分かる様な分からぬ様な説明である。それにしても、自分の短い一言に対してこうも良く喋る、と、オウギは目を瞬いた。
「七松君は運動神経と体力が抜群で、食満君は学園一の武闘派、潮江君は学園一ギンギンに忍者してる男で……とにかく凄く強いんだけど、血の気が多いからって、善法寺君がオウギちゃんとは暫く面会させないって決めちゃったんだよねぇ」
「あの、」
「なぁに?」
タカ丸を振り返ろうとすれば、「そのままね」と、頭をやんわり抑えられる。
オウギは布団に包まれた膝に置かれた、自分の腕を見下ろしながら改めて口を開く。
「そんなに喋って、障り無いのですか」
「え?」
キョトンとした声。衣擦れの音と空気の揺れから察するに、タカ丸は首を傾げてるらしい。
「俺。オウギちゃんに教えてるんだよ?」
「……教えて?」
また振り返りそうになった所をやんわり抑えられた。
「何故、」
この男、やはり理解不能だ、と、オウギの眉間に微かに皺が浮かぶ。
「何故って、そりゃ、いきなり右も左も分からない所にいて、不安じゃないかなって思ったから」
タカ丸は鋏の手を止め、仕上げなのだろうか、念入りに髪を解かしだした。
「色々教えておけば、ちょっとは安心できるかなってさ。だから何でも聞いてよ。俺が答えれる事なら教えてあげるから、後、ちょっとだけ結ってみても良い?」
最後に付け足された言葉はともかく、タカ丸が宣った前半を、オウギはゆっくり反芻する。
言葉の意味は分かるし理は繋がっている様だが、解せない。
「…………ならば、タカ丸殿は何故、私を安心させたいと思うたのですか」
「ん?だから、オウギちゃんが不安だろうなって思ったからだよ。ね、ちょっとだけ結ってみても良いよね?」
だから、答えになっていない。
オウギはまたそろり、息を吐く。
どうやら、この男は自分とは全く思考感覚が違う人間な様だ。
理解はできないが、何とか、その事だけは、
「あい分かりました」
「やった、ありがとう!」
そういう意味で言ったのではなかったのだが、なんだか酷く脱力感を覚えたオウギは、半ば捨て鉢の気分で今はもう、タカ丸に好きにさせておく事にしたのだった。
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