さて、月霞むその夜を抜け
□まろび落ちる果実
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忍術学園くの一教室担当教員、山本シナは、それを見た時に「あら、」と、その皺を飾り(この時、彼女は纏う二つの姿の内、老女の姿を取っていた)ながらも冴えた光を持つ眼を瞬かせ、声を掛けるか掛けないかの一瞬の逡巡の後に、それに、彼に声を掛ける事を選んだのであった。
「真桑ですか、学園長先生」
シナが声を掛けて、顔を上げた忍術学園の長。大川平次渦正の、その微かに開いた口と眼の動きに、シナは狼狽えの様なものを感じた。
老翁ながらも企みを見咎められた子供の様な彼が手に持つ盆の上には、時期からして初物と見ても良いだろう真桑瓜が、その瑞々しい切り口を見せながら一口に食べやすい様にされて並んでいた。
「食堂で切って貰ったんじゃ。シナ先生、どうですか、お一つ」
そこにあった狼狽えは直ぐに立ち消え、大川平次は朗らかにシナへ盆を差し出す。シナは、「では有り難く」と、受け取り、一切れを口に含んだ。喉を、柔らかい甘味が通っていく。
「食い気が無い時も、此れは食べ良いですものね」
瓜の汁で湿ったシナの声には悪戯っぽい響きがあった。大川平次はまた僅かに狼狽えた様に目をさ迷わせ、だが、直ぐににっかりと笑みを浮かべて廊下を歩き去っていく。保健室の方向であった。
老いらくの恋……いいえ、その表現は稚拙だわ。適切とは、言えないかもしれない。
と、シナはその背を見送りながら思案する。
そのまま思い返すのは、数日前、あの少女が、湊川オウギが逃走に失敗した時の保健室での一場面。
混乱と好奇とに耳が痛くなるほどに騒がしかった保健室のその一角で、目を開いたオウギの、その眼。
星を映した古井戸の底の様な眼であった。
何かを呪う様な、同時に何かを祝ぐ様なその目が三回瞬く内に覚醒し、その神秘は成りを潜めた。
起き上がろうとしたオウギを、シナは反射的にその腕に支えた。その身体の、弱々しい動きにそぐわない鍛え上げられた固さに、ぎくりとしたものを覚える。
オウギは一瞬だけシナを見て、それから、もう一方を見る。大川平次が其処に座っていた。
その時の大川平次は、シナの目には一層に老け込んだ様に見えた。
「あの時の恩を漸く返せる」
そう囁いた大川平次の声には、然し、喜びの類いは感じられなかった。
強いて言うならばそれはやはり狼狽であり、だからこそ、大川平次の心情と、オウギの存在は、シナにとっては真に迫った現実味を伴っている。
大川平次にとって、あの少女は、『七十年前のマツホド忍者隊副長、湊川オウギ』その人に他ならないのであり。彼女もまた、湊川オウギとして其処に存在し、己の状況に戸惑い困惑していた。
それに現実味があるからこそ、シナはそれをどう納得するべきか、気持ちの落とし処というものを見定めかねていた。
傍観者である自分がそうなのだから、その当事者達の荒れ狂う動揺ははて、如何ばかりであろうか。
ただ、こういう時は、何もせず、全てがなるようになる事を待つしか無いことも経験から学んでいるシナは、小さく一人頷いて、また廊下を歩き出すのである。
この、斎藤タカ丸という青年は、とにかく話は通じないが、その髪結いの手際は本物であるらしい。
と、湊川オウギは、鏡の中に映る自分の髪を見て思う。
きっちりと結わえられ、櫛を差し込まれているだろう其処は、解ける気配も無いが引っ張られている感じも受けない。
「うん。此れも良いけど、寝るのには邪魔だから下ろし髪の端だけ結わえとこうか」
そうタカ丸がオウギに掲げていた鏡を退かすと、結い髪を解きに掛かる。背中を髪がはさりと打った。
「オウギちゃん、何色が好き?」
鏡を向けてきた時もそうだが、肩口や顔の横を通る腕に毎度ぎょっとするものを覚える。タカ丸の腕からは、水と、微かに香油の匂いがした。
オウギの背後から此方に伸びてきたその腕、指先に、四本の髪紐が握られている。
蜜柑色、柳色、牡丹色、縹色。
オウギの指が、遠慮がちに一つを指せば、タカ丸が微笑んだ気配がした。
「僕も、オウギちゃんはそれを選ぶかなあって思ったんだ」
そう言って、息三十にも満たぬ内にタカ丸は「はい出来上がり」と、オウギの髪を左肩から胸元へと足らした。
下で緩く輪にしたそこに、牡丹色の糸が結ばれている。
「……有り難う、ござい、ます」
オウギが頼んでの事では無いが、此処までのタカ丸の行為にはタカ丸なりの親切心を感じた。
オウギのぎこちない礼に、タカ丸はへにゃりとした笑みを浮かべる。
頬が、如何にも柔らかげで、蒸し饅頭の様で、オウギの顔も、つい、無意識に緩むのだった。
だが、その緩みもほんの一瞬の事、戸の向こうの気配に、オウギは首を巡らせる。
「誰ぞおるか」
老翁の声、嗄れたそれ。
オウギは少し息を呑む。
声に老いはありはしたが、それにやはり聞き覚えがあった。だから、誰が来たのか分かる。
「渦正殿……」
オウギの消え入りそうな声に、戸の向こうの気配が微かにざわめいた様に、オウギは思った。
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