さて、月霞むその夜を抜け
□まろび落ちる果実
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ざわめいた気配は、少しの間を置いて静まる。
タカ丸が立ち上がり、戸へと向かい、其処を開けた。
「うむ、すまんの斎藤。オウギ殿、」
其処に立つ大川平治渦正は、オウギを見て、眩しげに目を細めた。遅れて、それが笑顔なのだとオウギは気付き、会釈を返す。
「怪我の具合は、どうかの」
「……お陰様で、大事御座いません」
大川平次のぎこちない問いに、オウギもまた、ぎこちなく返す。
タカ丸は、タカ丸で戸惑いを混ぜた曖昧な笑みで大川平次とオウギとを見比べていた。
「そうか、それは、それは宜しいこと」
こくりこくりと頷きながら、ゆっくりと部屋の中へ足を踏み入れてくる大川平次の手に持つ盆の、その上に盛られたものに、オウギは目を瞬く。
「……瓜には、」
時期が違うのでは、と、オウギは言葉を飲み込んだ。
今は、晩秋……の筈だが、然し、それにしては暖かいと思っていたのである。
「あの。今の月は、如何に……」
タカ丸へとも、大川平次へとも着かない疑問が、オウギの口からまろび出て、それに「卯月だよ」と、答えたのはタカ丸であった。
「卯月、とは、」
オウギは絶句した。
そんな筈は無いと声を上げたかったが、もうそんな気分は何度も味わって来た事に思い至り、オウギは仕方無く、ポカンと開いた口からそのまま、はあっと息を吐き出すのだった。
大川平次はそんなオウギの様子をじっと見て、それから静かに真桑瓜の乗った盆を床に下ろし自らも腰を下ろした。
「食い気が無いと聞いた故、どうじゃ、一つ」
そう、如何にも甘く柔らかそうな瓜を指し示す大川平次の掌は細かく震えていた。
大川平次はそれに気付いたのか、その手を直ぐに引っ込ませ、所在無げに胡座の膝の上に置く。
皺の奥から伺うようにオウギを見て、直ぐにまたその目を伏せた大川平次は、暫くそうして瓜を睨むように目を落としたまま、唇をもごもごと蠢かせていた。
そこから言葉が出てくる気配を感じたオウギは、それを待つ。
「……畑で、」
漸く出て来た。掠れた声は、やはり酷く聞き覚えがある様に思う。
「あの畑で、手ずから育てたんでなくて、買うて来た瓜じゃがの」
酷く聞き覚えのある声でそう言って、大川平次はまた、くしゃりとしかめっ面の様な笑みを浮かべた。
オウギの唇から、はふ、と息が溢れる。
「まっこと、奇妙、だ」
そう呟くオウギもまた、ゆるゆると笑みを結び出す。
大川平次と同様に笑う他に無いといった風情の、そんな表情だった。
「貴方は、まこと、渦正殿なのだな」
「……最初からそう言うとるわ。オウギ殿こそ、年を何処に落として来られた」
ふと、タカ丸が息を詰めて、此方を伺っているのが視界の端に留まり、オウギはまた、はふ、と、息を溢す。
「残念だが、落としてきた覚えというものが無くてだな……気が付けば、」
言葉が其処で途切れた。
オウギは、声の震えに気付いて自ら意識的に語るのを止めたのである。
唇を噛む、その端から漏れる息すら震えていた。
『年を落としてきた』というよりも、今の己は、まるで、
「私は、やはり、狂い女なのかもしれぬ」
『歳月に見捨て落とされた』様だと、そんな愚にも着かない事を冷静に思う己は、どう考えても尋常では無いのだろう。
震える声が、ただひたすらに忌々しい。
「オウギ殿、」
大川平次の声はその時、不思議と嗄れた感じは受けなかった。
「そうだとしても、もう相見える事は叶わぬと思うていた方にこうして会えて、儂は、嬉しく思うておる」
『嬉しい』と宣う大川平次の声色は、狼狽が強く出て喜びに薄い響きであったが、故に誠実なものが其処に滲み出ていた。
四年ろ組の浜守一郎が、保健室の戸を開けた時に、真っ先に目に入ったのは、布団に半身を起こしたオウギの、その脇に置かれた盆である。
「う、瓜……」
と、思わず口を吐いて出ていた。
「あ、守一郎。遅かったね」
オウギの側に腰を下ろしているタカ丸が、瓜を刺した楊枝を片手にへにゃりと笑う。
オウギもまた、此方を見てきた。広い額の下で、切れ長な眼は怪訝な色をしている。
「えっと、もう知ってるだろうけど彼は僕と同学年。四年ろ組の浜守一郎」
タカ丸の紹介に、守一郎はぎこちなく会釈をする。
それからやはり目を落としてしまうのは盆の上に盛られた瓜である。
「あの、この瓜は、タカ丸さんが……?」
「いや、学園長先生からの差し入れだよ」
「あ、そう、ですか」
守一郎は自分でもその返しは間が抜けていると感じて頭を掻く。
それから、罰が悪い苦笑を浮かべて、手に持つ包みをゆわんと揺らす。
「被ってしまった」
風呂敷の端から、瓜の皮の黄緑が覗いていた。
オウギを見る。彼女は、ほんの少しだけ首を傾げて、守一郎は益々罰が悪そうに苦笑した。
「えっと、もう前に名乗ったし、タカ丸さんにも紹介されましたけど、浜守一郎っていいます……怪我の具合、どうですか?」
所在無げに、オウギの布団から微妙な距離を開けて守一郎は腰を下ろした。
「大事御座いません。その瓜は?」
蒸し返されるとは思っていなかった。守一郎はううんと何とも言えない唸り声を上げてまた頭を掻く。
「えぇと……食い気が無いと、聞いたので、此れなら食べれるかな、と」
下を向いて、しどもどと言いながら顔が熱い。
オウギの視線が刺さり、タカ丸が小さく笑うのが目の端に映った。
「守一郎、学園長先生とおんなじ事言ってる」
「え、あ、そうなんですか」
顔を上げれば、オウギとまた目が合った。ポカンとしている彼女の表情は、間を置いて、ゆるゆると笑みに変わっていく。
それは苦笑の色が強くはあったが、守一郎が初めて見た、彼女の最初の笑みだった。
「守一郎殿……」
「は、はいっ!」
その笑みが大写しに、守一郎の視界にこびりついていた所に、オウギの声が被さってきて彼は思わずギクリと姿勢を正す。
「貴方の、その、曾祖父だと言っていた……弦一郎殿は…………御存命か」
オウギの表情からは笑みは遠ざかり、細い眉は薄らと潜められている。
「……ええ、元気です!俺の忍術の先生でもあるんで!」
其処に不安の色を見た守一郎は、明るい声でそう答えたのだが、オウギの表情は益々曇る。
守一郎は、何か間違ったかと、その表情の変化を考える。そうすると、オウギが、またもふっと笑みを浮かべるのである。
「その様に真剣に見られると、穴が開きます」
「えっ、あ……すみません!」
また顔に熱が戻って来て、守一郎は自分の膝をバッと見下ろした。
「弦一郎殿に、一度、会わせていただけますか」
オウギの声が落ちてきた。
守一郎は「分かりました」と、膝を睨みながら頷くのだった。
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