さて、月霞むその夜を抜け

□予感を孕んだ賑やかさ
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 こうしていると、まるで……

 オウギは、晴重の柔らかな声で以てその先に続いた言葉に、聞こえなかった振りをしようと思った。
 そう思った瞬間に、本来ならば「お戯れを」等と流す方が穏当で正しいのだと気付いたが、何故かその返しを言う事ができず、聞こえない振りをするとしても聞き返す事もできず、ただ曖昧な笑みを浮かべたのである。

 庭にいたのは、晴重と、結丸と、オウギだけであった。
 幼い結丸は、オウギが抱きかかえた猫を恐る恐る撫でるのに夢中で、晴重の独り言の様なその言葉をはっきりと聞いて反応を返したのはオウギがただ独りだった。

 その事が、嬉しい。
 嬉しくて胸の奥が疼くようだった。

 曖昧に、良く聞こえなかった様な振りをして、笑みを浮かべたオウギはその言葉をじくじくとする胸の内の、奥の奥へとしまい込んだ。
 しまい込んだと共に、それは、何時からかずっと乾いた風が吹きさらしているみたいな己のその場所に、火を放ち、あっという間に燃え広がるかの様な錯覚を覚えた。

 このお二人の、この方の為ならば、私はどんな事でもしてしまうだろう。
 
 それは予感だ。

 だがきっと、違えぬ予感なのだ。





「オウギさん、起きていますか?」

 足音も気配も隠していないのだ。寝ていたとして気付いて目が覚めていたろう。
 オウギはそう思いながらも、口には出さず。立てた膝から顔を上げた。

 上げた先に、部屋の入り口に立つ、オウギと歳頃が近そうな青年。善法寺伊作は、オウギが背を預けている畳まれた布団を見て、人の良さげな顔を少し歪めて笑う。

「まだ寝ていないと駄目ですよ」

「これ以上身体を横たえてたら妙に鈍ってしまいます」

 伊作の気配が近付くまでに、部屋の物色をしていたことは気付かれてはいないだろう。どちらにしろ、オウギが眠る部屋はここ数日の内に異常にこざっぱりとしていて刃物の類は勿論の事、投げものや武器等にできそうなものは一つとしてない。
 オウギがこの地に身を寄せてから早五日が過ぎた。
 伊作とは探り探りの気はあるが、言葉を交わせる様になっていた。彼は嘘が吐けない性格の様で、色々と話を聞き出せてもいる。とはいっても、未だ己の状況は良く分からないままだ。

 此処は、七十年も先の世。
 あの、オウギが拾った流れ者の大川平次渦正が建てた忍術学園……忍を育てる学舎。
 武装集団なのかと思いきや、本当に学舎であり、特定の勢力と強く敵対する訳でもなく、それでも一勢力としての力は十二分にある。
 下は齢十から上は十五まで、金子と学ぶ意思さえあれば、武家、農民、商家等その家柄は問わない。
 一所に集った子ども達は、皆助け合いながら乱世を生き抜く忍となる為に研鑽を積んでいる。
 なんとまあ酔狂な。そんなものが成り立つのかとオウギは呆れたが、同時に渦正ならば、あの男なら如何にも考えそうな事だとも思う。
 
 伊作もまた、此方の学徒であり、保健委員会の委員長……此処には、より専門的な事を学びつつ学園を運営する為の委員会というものがあるらしい。
 保健委員会が担うのは生徒の怪我の治療や心身の健康の管理。
 オウギの傷を癒した薬もこの伊作が手ずから煎じたものだというから驚いた。

「何用でしょうか」

 件の薬も包帯もつい先程変えたばかり、驚く事に三食きちんと出てくる内の昼餉もその時に終えている。

 この訳の分からぬ状況の中、出されたものに簡単に手などつけられない。だが「いりませぬ」と伝えても伊作は「傷を治すためです」とオウギが食うのを強いるのである。
 何度もオウギが拒んでいれば、果ては「食材を無駄にしてしまいます」とまで言われてしまい、そこまで言われれば仕方無く、最近は少しずつ食べるようになった。食べ始めてみれば、驚くほどに美味い飯だった。
 そして昨日、初めて完食してしまい、その食事を手掛けた『食堂のおばちゃん』と名乗る老年に差し掛かるぐらいの恰幅の良い女性が部屋まで訪ねて来たのだった。
「食欲が出たのなら良かったわ。此れからはお残しは許しまへんで」とあまりに暖かい笑顔で言われ、それに思わず頷いてしまったものだから、オウギは今朝から、出された食事を残せずにいる。

 自分は、恐らく、此処の空気に呑まれつつある。
 監視の目はまだ感じてはいれども、此処はどうにも緩く、穏やかに過ぎる気がするのだ。
 夢を見ているのでは無いかとすら思う。ずっと此処にいたら、任された大事な事まで曖昧になりそうだ。
 だが、今が七十年も先の世だとして、どうやって、自分は此処に来たのか、そして、どう戻れば良いのか。

 オウギは焦りを感じていた。
 胸に下げた銅鏡を握る。
 そこへ掛かる伊作の声は、何時もと変わらず明るく穏やかだ。

「今日は、オウギさんにお客さんが来ますよ」

「はあ……」

 伊作が言った事を考えていると、ふと、賑やかな足音と声が此方へ近づいてくるのだった。

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