さて、月霞むその夜を抜け

□道
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 晴重がそれをオウギに見せたのは啓蟄の候を過ぎたある昼下がりである。
 土に触れれば柔らかに温く、陽光は暖かではあるが、まだ春と呼ぶには寒い日。晴重の顔色は何時もながら思わしくなく、時折胸につかえるような咳を繰り返す。

「閨にお戻りください」
「いや、ここで良い」
 
 厨にて、薬湯用の湯を沸かすオウギの後ろから、その苦し気な咳が聞こえてくる。土は温かろうが厨の床は冷たい。オウギは気が気でないのだが、晴重は頑なにその場でオウギが薬を作るのを眺めているのだった。
 少し以前に、オウギが晴重に作った薬湯は良く効いたそうだ。
 また作って欲しいと、城の三の丸に呼ばれたオウギの案の定、屋敷にいたのは晴重と側仕えは齢六十に手は届く寡黙な爺が一人のみであった。

「見飽きた天井より、おぬしを眺める方が遥かに気が晴れる。こうして目に覚えて、会えぬ間は板目にその姿を判じて気を紛らわそう」

 咳に掠れても尚柔らかい声をした晴重の顔を見ないように俯けたオウギの頬を厨の窓から入ってきた冷たい風が撫でる。

「お戯れを、あまり申さないでくださりませ」
「判に押した物言いも上手くなったな……オウギ」

 名を呼ぶ声に、オウギは晴重を見る。

「今日は、これを見せようと思うてな」

 白い顔で笑う晴重。
 オウギは、その下の痩せた肩にもう少し着込ませねばと思う。
 袖口から覗くのは、男の、何時れは城を守る次期当主のそれにしては細い手首、長い指にそっと握り込まれた小さなもの。
 手招きされ、近付いて見たそれは古い銅鏡であった。

「私の母が、出雲の国の巫女であった事はお前も知っておろう」

 オウギは頷く。
 美しかったと語られる大殿の内室が一人。その気高くもあるが、卑しいと揶揄される血を引く晴重。晴重を産んで後に直ぐ儚くなった母刀自の顔を、晴重より七つも下のオウギは当然知らない。知らないが、その面差しは晴重に色濃く引き継がれたのだろうとは思っている。

「これは、その母の形見だ」

 晴重の指が曇った鏡面を撫でれば、さりりとかそけき音がする。

「母が言っていたんだ。これにはな。面白い話があるんだよ」

 晴重は、大事な秘密をそっと打ち明ける幼い子の様にオウギに微笑むのだった。







「渦正殿に今一度会わせて頂けますか」

 顔を上げてそう誰にともなく言ったオウギの頬は濡れてはいなかった。
 だが、その膝に置かれた手は濡れている様に思う。隣に座る守一郎の曾祖父が隠すようにそこへ手を重ねているから判然とはしないのだが。
 守一郎は何も言葉を返せず、ただオウギを、その濡れてない頬や冷たそうな手首を見る。

「それは、どういった目的ででしょうか」

 オウギの申し出に言葉を返したのは六年は組の善法寺伊作だった。
 結局のところ、オウギに対する一番の決定権を持つのは彼である。
 オウギは口許に笑みを浮かべる。あるかなしかのそれは、守一郎にはまるで笑うしか他に無い惰性の表情に見えた。

「此れから、どうあってもご厄介になるのです。此方から挨拶の一つも無いのは非礼ではございませんか」

 オウギがそう言う声も、表情と同じく、穏やかであるのに何処か捨て鉢に聞こえる。
 伊作は僅かに首を傾げて、視線はオウギや己の膝をうろうろとしている。判断に迷っている様子であった。

「俺も行きます!」

 守一郎は、気がつけばそう言っていた。
 部屋中の視線が一気に自分に集まる。そこには曾祖父を挟んで直ぐ隣のオウギのものも混ざっていて、首筋がざわざわと熱くなるのを感じた。
 それでも守一郎は、ぐいっと首を動かしてオウギを見る。オウギは、何とも言えない表情で守一郎を見ていた。
 守一郎は、その凪いだ穏やかさにある捨て鉢な綻びを何かで包んでやりたいような、そんな気がしていたのだが、それは情には厚いが根が単純な嫌いもある彼の中で、はっきりとした像や言葉をまだ結ぶ事は無かった。

「あなたは俺が連れ帰ってきた、ので、俺からもお願いするのが道理だと思います」

 強いて言うならば、俺が何とかしてあげたい。とそんな思いで、然しそう思う理由を深く考える思慮は、守一郎には今一つ足りないのである。

 曾祖父の手が離れた。オウギは、難しげな顔をしている老翁を見る。

「玄一郎殿は、どうされる」
「儂ゃ良い。此所におる。守一郎を代わりに連れていけ」

 オウギはまた淡く笑った。
 伊作は溜め息を一つ落として、
「ならばご案内します」とゆっくり立ち上がるのだった。

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