さて、月霞むその夜を抜け

□眩む程に目映いものは
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 忍たま四年長屋の井戸、夜明けの薄闇の中で今朝一番に顔を洗い出したのは浜守一郎だった。
 卯月の半ばとはいえ、山深い場所にある学園の朝の井戸水はぴしりと身を引き締めさせる冷たさである。微睡みを払う様にごしごしと顔を洗った守一郎は、「よしっ!」と、掛け声を着けて頬を両手で打つ。
 きりっとした眉毛の下で、意思の強そうな目が、白く光り出した山の端をしっかと見据える。
 気合い充分といった風情で、守一郎は自室へ着替えに戻るのだった。

 今日から、湊川オウギが忍術学園で働き始める。
 守一郎は彼女が学園生活に慣れるまでの世話役を学園長先生に申し出ていた。
 オウギを学園へ連れてきたのは自分であるからというのがその理由だ。あの厳しい曾祖父からも「オウギを頼む」と言われている。
 彼女が出来るだけ早く学園に馴染める為に、俺は出来る限りの事をしよう。と、守一郎は張り切っているのである。

「なんだ。早いな守一郎」

 長屋の縁側へと上がれば、同輩の田村三木ヱ門が廊下へと出てきた。
「僕が一番だと思ったが」
 と、少し悔しげに眉を潜める三木ヱ門の髪には、寝癖や乱れの一つも無く、朝日に照らされて金糸の様に光りながら肩を流れる。
 大方今の今まで丁寧に櫛梳っていたのだろう。だとしたら起きた時刻は守一郎とそう変わらないのかもしれない。守一郎はそう思い「そうでもないぞ」と、三木ヱ門に答えたが、三木ヱ門からはその脈略は良く分からず、かといって彼は何の事かと聞き返す事もせずに肩を小さく一つ竦めて井戸へと向かおうと庭に降りるのである。
 己の事情や評価に関わらないものに関して三木ヱ門は興味が薄い。三木ヱ門だけでなくこの学年の者達は多かれ少なかれその傾向がある。
 その最たる者がちょうど今、廊下へと歩み出てきた。三木ヱ門の顔は不快そうに歪む。それを見た守一郎は苦笑した。

「なんだ。早いな守一郎……私が一番かと思ったが」
「ぶふっ!」

 先程の三木ヱ門と全く同じ言い回しで、三木ヱ門と同じく入念に解かしたろう髪を靡かせる平滝夜叉丸が歩いてくるのは、中々可笑しみのある光景だ。元より笑いの沸点が人よりも低い守一郎は堪えきれずに噴き出した。
 唐突に笑い出した守一郎に対して、滝夜叉丸は片眉を軽く上げた程度で、どうかしたか等とは聞かないのである。そこもまた、三木ヱ門と同じだ。協調性の無いと評される彼等らしいといえば彼等らしい。好敵手同士、似た者同士という事でもある。

「残念だったな滝夜叉丸。お前は一番どころか、この僕にも劣る三番だ」
「そういえば、彼女は今日からか」
「無視か!」

 例え、それが起床の順番という他愛ないものであれ、己が三番手であるという耳障りの悪い事を聞くよりは、まだくつくつと腹を抱えている守一郎を相手にする。滝夜叉丸はそういう奴である。三木ヱ門の顔は更に歪むのだった。
 声を掛けられた守一郎は、げほげほと噎せ返りながら無理矢理笑いを収めて、「ああ」と、頷いた。

「世話役、なんだよな」

 と、三木ヱ門も聞く。聞いたが三木ヱ門は別段、守一郎が湊川オウギの世話役であるか否かを知りたかった訳ではない。
 それは、滝夜叉丸が聞いた、『彼女は今日からか』もまた同じである。

「ああ。そうだ!」

 滝夜叉丸と三木ヱ門が確かめたかった所は、力強く元気に頷いた守一郎の、明るく気合いに満ちた、そして何処か嬉しげな表情が答えとなった。
 そんな守一郎の顔を見て、それから二人は互いの顔を見合わせる。見合わせてから、ついついその様な仲睦まじげな事をしてしまった事に三木ヱ門は顔をしかめ、滝夜叉丸は小さく鼻で笑う。

「守一郎、お前は、その……なんだ」

 滝夜叉丸が三木ヱ門から目を外し、守一郎に何かを問わんとした。然しながら普段の、相手を辟易させる程の饒舌ぶりは成りを潜めて、言葉を探すように口をもごもごとさせている。
 となれば、しめたとばかりに三木ヱ門が、その言わんとしているだろう事を言う為に守一郎に一歩詰め寄った。

「守一郎。お前、あの人の来し方について、何処までをどう思っている」
「来し方?」

 詰め寄ってきた三木ヱ門の問いに、守一郎は首を傾げた。
 三木ヱ門は小さく溜め息を吐いて、口を開いた。
 
「七十年前の過去より来たりし、今は無きマツホド忍者隊副長」

 途端、三木ヱ門の後ろから滝夜叉丸の声がする。険のある目付きで振り返る三木ヱ門の視線の先で、滝夜叉丸が優雅な仕草で縁側に腰を下ろした。

「間者のはったりにしても馬鹿げているな」

 肩に掛かった髪を払う仕草も、また芝居がかった鷹揚さ。別段当人に作為的なものは無い。無いのだが、口淀んでいたのに三木ヱ門の弁をここぞという場所で悪気も無く奪い取るのだ。滝夜叉丸とはそういう奴である。
 三木ヱ門が、好敵手と認めながらも彼を好かんと思うのはこういう所なのだが、当人がそれに気付く時がやってくるのかは望み薄だった。
 三木ヱ門はまた溜め息を吐く。一々噛み付くのが馬鹿馬鹿しい事は分かっている。

「……はったりだとしたら、狂い女であるというはったりだろう。で、どうなんだ守一郎。お前の考えは」

 なので、滝夜叉丸の事は放っておく事にして、三木ヱ門は再び守一郎に問うのであった。

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