さて、月霞むその夜を抜け

□迷い路を歩き出す
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「おはようございます……」

 挨拶を返してくれた。

「……守一郎殿」

 名前を覚えて、呼んでくれた。

 たったそれだけの事で、今日一日がうまくいきそうな気がする。腹の底から力が沸いてくるみたいで、身体がじんわり暖かくなる。
 浜守一郎は確かにそう思っていたし、加えてそれは分かりやすいぐらいに面に出ていて、だが然し、その喜色満面の赤い頬や輝く瞳をもたらす胸の内の理由までは深く考えていない。
 故に、ずんずんと部屋の中に押し入るや否や、少女、湊川オウギの両手をがばっと包むように掴み。目を白黒とさせている彼女なんかお構い無しの満面の笑みで、「今日からよろしくお願いします!」等と宣えるのである。
 守一郎の背後では、くの一教室教員の山本シナが、微笑ましさと呆れの混ざった笑みを浮かべている。が、それを見れるのは当然ながら両手を握られたオウギだけで、オウギはといえば、どう反応を返したものやら分からないのか、驚き戸惑った表情のまま目をうろうろとさ迷わせていた。

「……此方こそ、よろしくお願い致します」

 オウギが漸く、そう言葉を返せば、守一郎は大きく頷いて立ち上がった。
 手が離れた事で、オウギはほっとしたかの様に小さく息を吐いたが、それも間が良いのだか悪いのだか守一郎の目には入らなかった。

「先ずは食堂までご案内します。俺の学友を改めて紹介させてください」
「……はい」

 オウギは守一郎をじっと見返し、それから頷いた。
 ほんの僅かだが、微笑んだ様に、守一郎には見えた。

「浜君、食事が終わったら事務室へ、吉野先生の所まで案内してさし上げてくださいね」
「分かりました。では、失礼します」

 守一郎は、シナに一礼し廊下へと出て歩き始める。遅れて、それに着いていくオウギの気配。足音は殆ど無いが、微かな衣擦れの音がする。

 振り返れば、オウギは庭の方を眺めながら歩いていた。朝日が眩しいのか目をしかめている。守一郎の視線に気付いたのか、はっと前に顔を戻し、早歩きで、二人の間に少し開いていた距離を詰めてきた。
 守一郎は笑顔を浮かべる。
 オウギは笑わず、不思議そうに首を傾げただけだった。

「オウギさん、と呼んでも良いですか」

 守一郎が聞けば、オウギは小さく頷いた。

「オウギさんに、これを渡しておこうと思って」

 守一郎が懐から取り出した帳面には、学園内での罠の目印について記されている。昨日の放課後に彼が書き留めておいたものである。
 それを受け取り、中身を見たオウギは、困惑した様に眉を潜めた。

「必要ないかもしれませんし、種類はこの限りではありませんけど」
「……よろしいのですか」
「はい。学園内を歩く上では便利ですから」

 オウギは尚も何か言いたげな表情をしていたが、やがてふっと息を吐き、帳面に目を落とす。はらはらと紙を捲りながら数回その中身を読んだ後、それを守一郎へと差し出した。

「ありがとうございます。覚えました」
「え」

 守一郎は、突き返された帳面とオウギとを見比べる。

「侵入者に対する警戒線なのでしょう。軽々しく余所者に持たせるものではありません」
「あ、えっと、」

 オウギの冷めた目線と声に、守一郎は何か言おうと思ったが、上手く言葉が出てこない。取りあえず、返された帳面を懐へぎこちなく納め、それから「ああ、」だか「うう」だか、そんな唸り声を小さく上げながら半歩後ろにいたオウギの隣に立つ。
 オウギはあから様にぎょっと身構えたが、守一郎はそれに構わず、直ぐ隣の、オウギを見る。
 視線の高さはそう変わらない、いや、寧ろ守一郎が僅かに彼女を見下ろしている。
 大人びてはいてもこうして見れば、何のへんてつもない少女に見える。だが、そんな彼女は、曾祖父から寝物語に、酔いの肴に聞かされていた『マツホド忍者隊副長』なのである。
 曾祖父から聞かされたオウギのその武功ぶりに、幼い自分が沸き立つものを覚えなかった訳でもない。
 七十年も昔から来たという荒唐無稽を手離しに信じた訳では無いが、守一郎にとっては、憧れの人物を前にしている様な気持ちなのだ。
 喩え、それがはったりや、彼女の妄言だったとしても、マツホド忍者の血を引く自分が、オウギを最初に見つけたのだという事実に守一郎は並々ならぬ縁を感じている。

「オウギさんは、暫く此処で働かれるのですから、全くの余所者ではないです」

 故に、彼女の置かれている状況や困惑に深く同調し、何とかしてやりたいと思っているのである。
 それだけでは無いのかもしれないが、少なくとも、守一郎は己を動かしている心情に、そう答えを出している。

「少なくとも、俺はオウギさんを余所者だとは思ってません」

 オウギは、庭を見ていた時の様にまた少し眩しげに目をしかめた。

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