さて、月霞むその夜を抜け

□何処かを滑り行く
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 大川平次渦正が、湊川オウギに拾われた時に彼女が差し出した饅頭は彼女言うところ、『我が若君からの御下がり』であった。
 オウギの言う『我が若君』というのは、マツホドの何人かいる若君の内の一人、結丸君(ゆいまるぎみ)である。この結丸についてのマツホド家中の内情を渦正が知ったのは、もっとずっと後の事だ。

 渦正が初めて結丸の姿を見たのは、オウギと玄一郎の鍛練に着いていった時の事だ。
 その日は、オウギも玄一郎も完全な非番の日であった。
 そして、玄一郎もオウギも、流れ者である渦正の技量に興味があったらしく、早朝から連れ出されるや、あれはできるのか、これはどうだ、流派は何処に近いのか等々質問と実践の応酬なのであった。
 組み手、刀、長柄、縄、飛び道具……と、休む間も無く身体を動かし、試し試されつつ昼を回る頃には漸くそれも落ち着き、オウギと玄一郎の興も少し冷めた様である。玄一郎は畑に行くと立ち去り、オウギはオウギで己の鍛練のみに集中し始めたのだった。
 渦正は連れ回され、休み無く付き合われた疲労を樹に背をもたせて癒しつつ、オウギの鍛練を観察している。
 彼等が鍛練していた場所は、山城の麓の森の中だ。
 近くには川があり、崖もあるその場所は、渦正がオウギに拾われた場所からも程近い。
 オウギは、先程から地に突き立てた杭の上に微動だにせず立ち続けている。
 杭の高さは立った渦正の胸元ぐらいまである。太さは大人の男の腕程度か。オウギは、高々直径三寸ばかしの杭の頭に右足を乗せ、左足は、右足首に引っかけるようにしていた。胸元で印を結んだ手首に刀の下げ緒を巻き付け刀を垂らしていた。
 そんな状態でオウギが立ち始めてからもう軽く四半時近い様に思うのだが、本当に、人形か何かの様に微動だにしない。膝近くに垂らされた刀も全く揺れ動く事が無い。
 体幹の強さは言うまでもなく、その異常な程の集中力に、渦正は物音を立てるのすら憚られ、背をもたせた樹の下から動けずにいた。
 然し、息を詰めていた渦正を他所に、オウギの研ぎ澄まされた集中は至極あっさりと解けた。
 ふいっと首を振ったかと思いきや、杭から降り、刀を腰に差す。滑らかな動きは、先程の人形の様に固まっていた姿からの落差が激しく、渦正は面食らう。

「もう終いなのか」
 だから、思わずそう聞いたのだった。聞いてから、渦正は近付いてくる気配に気付いた。
 それは軽い足音を伴ってやって来て、やがて繁みの間からまだ幼い男童がまろびでたのであった。

「オウギ、やはりここであったか」
「結丸様。オウギに何か御用でございますか」

 年の頃は、六つかそこら。
 やや幼く舌足らずながらも鷹揚かつ高潔な雰囲気を醸し出す口調、そして身に付けているものからそ男童の身分を察するのは容易かった。
 流れ者の自分が此処にいるのは障りがあるかと、渦正は然り気無く気配を薄くし樹の影へと身を隠した。
 そうして、そこから、武家の、それも、高い身分であろうそのその子どもの前に、オウギは笑みを浮かべながら膝を着いたのを盗み見た。
 主君に対する追従のそれであったのだろうが、渦正から見えたオウギの笑みは有らん限りに優しげであった。

「百合根の饅頭をもらった。オウギと食べようと思うたのだ」
「それは嬉しいお心遣いを、ありがとうございまする」

 目の前の子どもが愛しくて仕方無いとでも言うようなその表情は、まるで、母親が幼い我が子の目線に合わせる為に膝を屈ませた姿を彷彿とさせるのだった。





 浜守一郎は、気付いた事がある。
 オウギには、最初、物静かで人を寄せ付けない何処か冷たさのある印象を受けていたが、それはあくまで、彼女の置かれている状況がそうさせているに過ぎないのやもしれないのだ。
 守一郎含む四年の面々は、オウギが自分達の目と鼻の先で、その、ついさっき食堂の入り口で蹴躓いた一年生を助け起こす姿をまじまじと見ていた。
 助け起こされたのは傍目には意地の強そうな、確か一年い組の生徒。

「おやまぁ、伝七ったら真っ赤になっちゃって」

 そう、い組の綾部喜八郎が、その名を言った。
 守一郎が横目に見たその表情は、他のぎょっとした様な二人や、特に何とも思っていなさげな和やかな顔の一人とも違い、読みにくい無表情で、然し、少し伏せぎみにした目には何とはなく不機嫌の色が最初から、オウギに喜八郎らを同輩として紹介をした時からあった様に思う。
 オウギは、伝七に何事か声を掛けながら、それは恐らく『気を付けて』や『怪我は無いか』等といった他愛の無いものだろう、それに伝七はぎこちなく頭を下げながら何事かを答えて自身の同輩達を伴い立ち去っていった。
 それを見送って、オウギは再び、守一郎達の座る席へと戻ってきた。

「話の途中で失礼を致しました」

 そう、先程何事かを言い掛けた喜八郎に言えば、喜八郎はその少し不貞腐れてる様に見えなくも無い無表情で頭を振るのだった。

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