さて、月霞むその夜を抜け

□陰日向に揺れる
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「今日からよろしくねぇ。後輩が出来て嬉しいよぉ」

 守一郎に案内された事務室。そこにいたのは見覚えのある顔、小松田秀作と名乗った青年。
 ふにゃりふにゃりと頬を緩ませる様な笑みを浮かべながら自分の手を取り上下に振るその姿は、最初に抱いた印象ー他愛ない犬の子の様だと思ったーと全く違える事無く、オウギの顔には、曖昧な、引き釣るような笑みが浮かぶ。

「浜君、案内を有難うございました。後は任せてください」
「はい、吉野先生、宜しくお願いします」

 事務員は秀作以外にも数名いた。
 守一郎に労いの言葉を掛けたのは、事務の主任だという吉野作造。騙し絵めいた独特な顔立ちは穏和そうでもあるが、オウギは頑迷そうな印象も受けた。

「ほらほら小松田君。湊川さんが困ってるわよ。手を放しなさい」

 そしてもう一人、老年にやや差し掛かるかといった雰囲気の女性。自ら名乗る事はせず、私なんざ事務のおばちゃんで良いわよと気の良さそうな笑顔を見せた。
 彼女は、秀作の襟を引きながらオウギから引き剥がしてくれた。
 礼を言うべきか、然しそれは秀作には非礼だろうとも思ったオウギが返した曖昧な黙礼に、彼女の大きな口に明るい笑みが浮かぶ。

「良いのよぉ。嫁入り前のお嬢さんなんだもの。ほら、小松田君、おばちゃんの手ならいくらでも触ったら良いから」
「ほへぇ、僕ん家のお婆ちゃんの手とそっくりぃ」
「あらやだ!年寄りだって言いたいんかい!?」
「いいえ〜、なんだか安心するなぁって思って」
「んまぁ。上手いこと言っちゃってこの子は!」

 先程までいた食堂とも負けずとも劣らない賑々しさに、オウギの顔はまた少し引き釣るのだった。

「では、オウギさん。俺は授業に行きますので。お仕事頑張ってください」

 世話役の守一郎はずっと側にいる訳でも無いらしい。それはそうかと思いつつも、一抹の心細さは感じないでもない。有るかなしかのそれを自覚したオウギは自嘲的な気分に僅かに眉をしかめた。
 すると、守一郎は目敏くも心配そうに眉をはの字にするものであるから、オウギはしかめた眉のまま苦笑に近い強ばった笑みを浮かべなどしてみる。

「……案内して頂き有難うございました。守一郎殿も良く励まれなさいませ」

 そう、強ばった笑みで言えば、守一郎はじっと見てくる。
 真っ直ぐに過ぎるのでは無いかと思うその目を、オウギは見返した。
 やがて、守一郎はゆっくりと笑みを浮かべて「有難うございます。ではまた後で」と一言、踵を返して廊下を去っていくのだった。
 後ろ姿が、足の運び方、腕の振り方、背中の稜線が、玄一郎に良く似ていて、その事が可笑しい様な然し悲しい様な気分で、オウギはそれから目を離して、作造と未だきゃいきゃいと賑々しい二人に改めて頭を下げるのである。

「何でもお申し付けくださいませ」

 そう言ったオウギにまず渡されたのは、筆と硯と文机。

「下級生の校外実習のお知らせ、上級生の実地訓練のお知らせをそれぞれ五枚、実地訓練に関しては詳細を学年毎に四枚ずつ作っていただけますか」

 それと、作造から渡された「これが見本です」という裏紙に書かれたお知らせだの詳細だのの紙。

「学年毎に四枚、という事は詳細は十二枚、ですか……ああ、でも内容が違うのですね」

 間者の疑いが全く晴れたという訳でも無い己にさせる事ができる仕事、となると悩ましたのでは無いだろうか。と、そう思いながらオウギは筆を取る。
 紙も墨も貴重なものだ。書き損じなど無いように、慎重に見比べながら、見本通りの内容を書き付けていくその字はとても精緻なものだった。

「ほわぁ。吉野先生の字とそっくり」
「あらまあ。大したもんだね」

 覗き込んできた二人の言葉で、オウギは無意識の内に字体もなぞっていた事に気付いた。
 作造も、ほう、と小さな呟きを溢しながらオウギが書いたものを眺めたが、ふと我に返った様に咳払いをする。

「小松田君、おばちゃんも、感心していないで各々の仕事に入ってください」

 そう厳しげな声に、秀作は紙の束と箒を抱えて外へと飛び出し、事務のおばちゃんは部屋の奥の文机へ向かった。
 作造は、オウギの向かいの文机の前に腰を下ろし、算盤と帳面を取り出して何事かの計算を始めるのだった。

 そうして、部屋には沈黙が訪れた。
 聞こえてくるのは、墨を擦る音、筆を運ぶ音、紙を捲る音、算盤を弾く音。細やかな音は沢山あったが、それでもオウギにとってこれは、漸くやって来た静かな時間で、思わず微かな溜息が口の端から溢れ落ちるのだった。

 静かな部屋の中で、言われた通りの内容を全て書き付けていく。
 書き損じ無く全てを仕上げることができて、オウギはまた、微かな溜息を吐いた。

「終わりました」
「うむ……」

 作造は、じっとオウギの仕上げた紙と見本を見比べる。

「よろしいでしょう……ところで、これは偽書の術でしょうか」

 秀作が感心した通りに、オウギが書いた字は見本のそれと寸分違わず良く似ていた。

「書き損じの無いように……と、思いまして、しようと思ってした事では御座いませぬ」

 オウギには、そう答えるより他に無かった。
 本格的に前戦に出る前の子どもの頃、先代に仕込まれるがままに何枚もの偽書を書いた事がある。故に、字体を真似る事が染み付いてしまっている。のだが、それは敢えて言う事でも無い。と、オウギは口をぴたりと閉じて、作造を見返した。

 作造は、曖昧に何度か頷いて紙を文机に置き、書簡が入った箱をオウギに差し出した。

「では、次はこれをお願いします。宛先別に分けて、紙帯で留めてください」
「はい」

 受け取ったその箱は、オウギの掌に軽く食い込む程度には重たかった。

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