さて、月霞むその夜を抜け

□陰日向に揺れる
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 午前の授業の終わり、浜守一郎はオウギを昼食に誘う為、事務室へと行こうと教室を出ようとした。

「おい、守一郎」
「うん?」

 のを、呼び止めたのは、同級の田村三木ヱ門。
 守一郎は廊下に片足を出した中途半端な姿勢で、首だけを三木ヱ門に向ける。三木ヱ門は、眉間に微かな皺を寄せて何とも難しげな顔をしていた。

「……事務室に行くのか?」
「ああ、昼食に誘おうと思って」
「そうか……」

 三木ヱ門は、難しげな顔のまま首を傾ける。床を睨むようにした目は然し、少しの間を置いてまた守一郎を見た。

「世話役、だからか」
「ああ。そうだ」

 三木ヱ門は何を当たり前の事を聞くのだろうか、と、守一郎も首を傾ける。三木ヱ門は、そんな守一郎を見て、小さく溜息を吐いた。

「席を取っておいてやるから、早く行ってこい」
「ああ、ありがとう」

 三木ヱ門ににかっと笑って礼を言った守一郎は廊下を足早に歩き出すのだった。

 ところが、である。

「湊川さんなら、もう先に食堂に行っちゃったよぉ」

 事務室に着いた途端、何故か書類まみれの小松田秀作がそう言ったものであるから、守一郎は少し呆けてしまった。

「え?一人でですか?」

 守一郎の問いに、秀作は首を横に振る。ぱさりと一枚、紙が部屋の隅へ滑っていった。

「吉野先生とご一緒に。僕はここの片付けができるまでお昼行けないんだよねぇ」

 全く悪びれる様子も無く、えへへぇと笑う秀作。
 守一郎は、釣られて苦笑を浮かべながら、然しそうか、と、頭を掻いた。
 残念な様な、少し安心した様な、中々微妙な心地である。

「手伝いましょうか?」
「良いよ。もう直ぐ終わるから、浜君はお昼食べてきて」

 到底、もう直ぐ終わる様に見えない引っくり返りぶりを見せる部屋の中で、のほほんと笑う秀作が気にならない訳でも無かったが、守一郎はその言葉に甘えて事務室を後にするのだった。

 行き違いになってしまった。
 いや、共に食べる約束はしていないから、行き違いとは少し違うけれど。
 三木ヱ門にも謝っておかなければ。
 吉野先生は、穏やかな良い方だから大丈夫だとは思うけど、

 けど、何だというのだろう。
 食堂へと、先程よりも足早にずんずんと廊下を行く守一郎の眉間にうっすらと皺が寄る。
 自分はどうして、オウギの事を何とかしてやりたいと思うのか。
 六年生とまともに渡り合える、恐らく己よりも遥かに強いだろうあの少女を、守らねばならないと思わせるのは一体何なのか。
 そんな事をぼんやり考えている内に守一郎は食堂の入り口に立っているのである。

 食堂に入って、既に席に着いてる三木ヱ門に手を振れば、三木ヱ門は手を振り返しながら目線で何処かを示した。
 守一郎はそれに頷いて、三木ヱ門の目線の先を見る。
 そこには、件の事務主任の吉野作造と、オウギと、後一人。
 オウギと向かい合う席に座るその背中に、守一郎は目を瞬いた。
 思わず三木ヱ門を見る。
 三木ヱ門は、何とも微妙な表情で、守一郎を見返した。その唇が、「どうする」と動いた気がする。
 守一郎は、それにもう一度頷いて、一先ずは昼食を頼もうと列に並ぶのだった。








 少しで良いから野道を歩きたい。と、言う晴重(はるしげ)の願いが許されたのは、その日は小春日和の割かしに暖かな日であったからだ。
 山城から麓近くの菩提寺まで行って、説法を聞く等して帰るだけの道中。供はまだ九つの女童でしかないオウギがただ一人。

 オウギは晴重の半歩後ろを歩きながら、その痩せた背中を見つめている。
 小春日和の陽射しに温もった柔らかな空気に、そのまま溶けて消えてしまいそうな、そんな背中であった。
 咳の出ぬように、ゆっくりと歩く晴重がふと止まったので、オウギは少し足を早めて近付いた。

「お疲れになりましたか」
「……いや、万両がこんなところに。可愛らしいと思うてな」

 晴重の細い指が示すままに、少し視線を下げれば艶やかな緑の葉の下、はっとする程に赤い実がたわわに下がった低木がちんまりと踞るようにしてそこにある。

「城の庭にあるものと一緒だろうかの」
「恐らくは、鳥が実を食ろうて、種を落としたのでございましょう」

 晴重は、何が面白いのか、くすくすと密やかな笑い声を立てて、腰を軽く折るようにしながらその赤い実を下げた枝に手を伸ばした。

「寺の和尚に、産まれる子の名を考えてもらおうと思うのだ」
「それは、宜しいことでございますね」

 晴重の内室である、香の方が懐妊したのはつい先日の事。
 少女の様に愛らしいが、何処か淡雪の様に掴み所の無いあの姫のぼんやりとした面差しを、オウギは思い返す。
 晴重が、オウギを見下ろした。その顔は苦笑を、笑うより他に無いとでも言いたげな苦い苦い笑みを浮かべている。手には、先程手折った万両の小枝がある。

「オウギは、男児が産まれるか、女児が産まれるか、どちらだと思う」
「……はて、分かりませぬ」

 産まれる子の性別などは儘ならないものだ。オウギが首を傾げれば、晴重の笑みは益々深く、苦い。

「私は、男児だろうなと思うておる」
「…………若君でございますか」

 晴重は、目を伏せて、手の内の赤い実を見下ろした。

「若君でも、姫君でも、晴重様のお子なりますれば、オウギは精一杯お仕え致しまする」

 それは、オウギの本心からの言葉だ。例え、後々にその言葉を晴重に聞かせた己を責めることになろうとも、直ぐ前にあるやるせなげな苦笑の意味を捉えることができなくとも、それは、オウギの心からの思いだった。

 晴重は、答える事も無く、ただ黙って、赤い実の枝を、結い上げたオウギの髪に挿した。
オウギの肩が、小さく震えた。

 晴重の笑みは、ほんの少し、柔らかくなった。

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