さて、月霞むその夜を抜け

□それは不愉快であった
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 オウギを仕事の後輩だと喜んだ小松田秀作という青年は、人当たりは滅法良いが同時に滅法不器用で要領は滅法悪いらしい。と、オウギは思った。同時に、たったの半日でそう決め付けるのは早計かとも思わなくも無かったが、今、オウギの眼前で、先程オウギが仕分けしたばかりの書類をぐちゃぐちゃに混ぜこぜにしてしまった、秀作の、その決まり悪げながらも呑気そうな苦笑を見れば、そう判断をせざるを得ないのである。
 混ぜこぜになった瞬間が、あっという間で良く見えなかった、のは、秀作が予想外のスッ転びかたをしたせいであり、そのあまりにあっという間に、終えた筈の仕事が振り出しに帰したことにオウギは、ただぽかんと呆けるしか無かった。

 昼前に事務主任の吉野作造から託された、その書類の仕分けには、半時は掛かったのだけれど。
 そこまで思い至って、漸く戸惑い多分の苦笑がオウギの頬に浮かんだ頃には、事務室を少しの間だけ出払っていた件の事務主任殿が戻って来て、間髪いれずに秀作へ特大の雷を落とすのであった。
 そして、またも呆けるしか無いオウギを前にして、作造の絶え間無い説教か始まるのである。
 秀作の方といえば、しょんと悄気てはいてもその悄気方は青年のそれというより母親に怒られる幼い子どもの様で、小憎らしさよりも先に気の抜けるものを感じるのだった。

「……では、小松田君は此処の片付けをしておくように、湊川さんは私と先にお昼休憩に致しましょう」

 一頻りの説教を終えた作造が咳払いと共にそう言えば、秀作は「ふぁーい」とふやけた様な返事。
 オウギはそれに、また気の抜けるものを感じ、苦笑を浮かべてしまうのだった。
 随分と、ぎこちなさのうすれた柔らかなそれを見て、秀作もえへへと顔を緩ませる。作造の深々とした溜息がとっ散らかった事務室を流れる。

「私も、お手伝い致します」
「いいえ、それはなりませんよ」

 オウギの申し出を、作造はぴしゃりと切り捨てるように否とした。

「小松田君は何事も一生懸命な子ですが、抜けている所が多々あります。それはもう本当に抜けていて、長い時間を掛けた仕事を微塵の悪気もお構いも無しに無に帰す事すらお手の物で……」

 そこは、照れる所だろうか。と、妙に嬉しげに頭を掻いている秀作を見て思うオウギである。

「ですが、自分がやるべきであることは責任を持ってやれる子です。そうですね、小松田君」
「あ、はいぃ」
「事務室を元通りに片付けておくように。良いですね」
「はい、吉野先生。僕、頑張ります」
「いえ、程々で構いません」
「ほえ」
「……程々。で、構いません」
「……はぁい」

 こっくりと頷いた秀作に、作造もこっくりと頷きを一つ、くるりと踵を返して廊下を歩きだす。
 オウギは暫し、所在無さげにその場に留まっていたが、作造が己を呼ぶ声を聞いて、漸く、秀作に軽い会釈をしながら彼女もまた廊下を歩きだすのだった。

「すみませんね。驚かれたでしょう。色々と」

 追い付けば、作造がそうオウギに言う。オウギは曖昧に頭を振った。

「いえ……随分と、お互いを信頼なされているご様子でしたね」
「嫌味ですかそれは」
「え。いえ……」

 違うと否定しようと思ったが、いざ口に出そうとすると途端に自信が無くなってしまった。
 嫌味。そう、今のは嫌味だったのかもしれない。
 微かに伏せた瞼の裏に浮かんだのは、あの男、の、此方を見ようともしない草臥れた横顔である。
 先代の、マツホド忍者隊隊長。
 オウギの育ての親、にはなるが、凡そ親子らしい情は無い。互いにその様なものを交わした事が無い。
 作造と、秀作のやり取りとは似て非なるもので、それから思い出したという訳でもないだろうが、自棄にはっきりと、あの男について思いが巡る。
 嫌味を重ねるなら、それはまるで毒に当てられた様なのだった。

 オウギはじっと伏せた瞼の裏で、あの男が自分に呪いの言葉を吐くのを見た。声までは甦らないが、口の形で何を言ってるのか分かる。いや、忘れようもない。

ーーお前は救われない。お前は救われない。お前は救われない。地べたを這いずり、息果てるまで戦い続ける以外、お前は生きてなどいけない。苦しめ、苦しめ、ああ、ああ、良い気味だーー


「冗談ですよ。そんな真剣になって考える事でも無いでしょう」

 作造の声に、はっと我に返った。

「え」

 あまりに深く、自分の考えに耽っていたせいで、それが自分に対して、何に対して言われた事なのかが分からず、ただただ面食らう。

「私は、貴女の来し方については全く信じてませんがね」

 作造は構わず話続けている。
 オウギは顔を上げて、その瓜実に何処か惚けた風情ながら頑迷なものを感じる顔を見た。作造が此方を見る目には、何やら呆れているような、そんな雰囲気を感じる。

「貴女が、とりあえず、とても真面目な方だというのだけは良く分かりました」

 作造は微笑んだ。
 オウギは、どう返せば良いのやら分からず、顔をまた微かに伏せた。

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