さて、月霞むその夜を抜け

□馴染まんとする日溜まりに
1ページ/2ページ


 忍術学園の奇妙な拾われもの、湊川オウギが、学園の『お手伝いさん』として、事務室に雇われて早三日。
 オウギの世話役を担う四年ろ組の浜守一郎は、昨日一昨日と同じ様に今朝も職員長屋の彼女の部屋へと向かっている。

「そう毎度、毎度、部屋まで迎えに行かなくても良いんじゃないか」
 と、彼の同級の田村三木ヱ門からは呆れた様に言われた。それについての守一郎の答えは、
「あの人、何というか放って置けないんだ」
 といった、端的だが曖昧なものである。三木ヱ門は益々呆れた様に顔をしかめていた。
 
 守一郎は、職員長屋を目指しながら、朝日の眩しさに目を細める。
 今日も良い天気になりそうだ。と、思う守一郎は、ふと今から迎えに行くオウギの事が胸中を過る。
 こんな良いお日和にも、彼女には拭いきれない翳りがある様だ。守一郎には、そう見えた。まるで、それは、冬の寂れた山の様だと思う。

 遥か昔から、やって来たという彼女。当に滅びたマツホドの忍。

 マツホド忍者の血と業を曾祖父から受け継ぎ背負う守一郎としては、彼女に色々な事を聴いてみたいとも思うのだが、そうすると胸中に過る彼女の翳りが更に強くなる様な気がする。同時に、一昨日の食堂で、守一郎の先輩である六年は組の食満留三郎と対峙した時の彼女の、荒んだ眼差しと張り付いた様な穏やかな笑みを思い出すのだった。

 彼女は、もしかしたら、自身が忍である事を良く思っていないのかもしれない。
 そんな事を思うと、守一郎は心の臓が少し狭くなる様な苦しい気分になる。
 守一郎にとって、忍とは希望の様なものだ。
 己が城を易々と落とした無能のマツホド忍の末裔と、行く先々で軽んじられ嘲りの目で見られて来たとしても、忍の修練を悪足掻きだと嗤われようとも、曾祖父の歪む横顔を幾度見ようと、あの時の、たった独りの籠城戦を共に戦おうとしてくれた学園との出会いが、今の自信を支えている。
 諦めないで良かった。
 守一郎は思った。忍の道とは諦めぬ事だ。諦めぬからこそ、希望はある。だから、自分は、これからもマツホドの最後の忍として生きるのだ、と。

 守一郎は、考える。オウギが自分の前に現れた理由は一体何なのだろう。マツホドが滅びた時の忍と名乗る彼女が、自分の前に現れた、その訳とは。
 
 そんな風に、彼女が現れてから、幾度も考えている事を今日もぐるぐると胸中でかき混ぜている内に、職員長屋の、彼女の部屋の前に来て、守一郎は、ぼんやりとしたままに殆ど無意識に無造作に部屋の戸に手を掛け、引いていた。

「おはようござ……い、ま…………」

 戸板が敷居を擦る音が聞こえた事で守一郎は、はっと我に返った。先ず最初に見たものは戸を開いた自分の手。了承も取らずに勝手に部屋を開けてしまった事に気付いた守一郎は、慌てて部屋の内へと、そこにいるであろうオウギへと目を向ける。

「あっ。すみま……すみまっせんんんんん!!!」

 途端、守一郎は後ろへと飛びずさりそのまま戸板を外しそうな程の勢いで閉めた。ズバンと重たい音を立てた戸が反動でまた僅かに開いたのをガタガタと慌ただしく閉めた。そのまま廊下へ頭突き紛いの音を立てて額突いた。その首筋や耳までもが赤くなっている。

 と、言うのも、守一郎がうっかり部屋の戸を開けた時、奇しくもオウギは着替えの途中であったのだ。
 事務員が着る制服の上の着物だけを身に付ける所であった彼女。守一郎が見たのは後ろ姿であったし、その背中も殆どが着物に隠されていた。
 とはいえ、墨染の着物から覗く肩や、その裾から伸びる脚等は見てしまった。
 細かい傷もあり特に白いという程でも無い彼女の肌。とはいえ滑らかな手触りは充分と予想はできて、それが、廊下に額突く守一郎の視界にまだチカチカと揺れている気がするのだから溜まったものではない。
 守一郎は、瞼まで熱い気がする目をぐっと閉じ、唇を噛み締めて、先程の光景をどうにかこうにか追い払った。

 暫くじっと、そうしていれば、やがてすっと部屋の戸が開く音がした。少し息を詰める様な気配があり、微かな衣擦れも聞こえた。

「……顔をあげてください、守一郎殿」

 囁くような声が、床に伏せた守一郎の頭の上へ落ちてくる。
 恐る恐る顔を上げれば、オウギが此方を見下ろしていた。上から下まできちんと事務員用の制服に着替えてはいたが、その墨染の色を見た途端に、守一郎の脳裏には先程の光景がぶり返しそうになり、視界が回る様な気がする、「あうあう」と奇妙な声が漏れる。
 オウギは、困った様な、戸惑っている様な、眉を潜めた表情で守一郎を見ている。

「……すみません。本当に、失礼な事を」

 漸く絞り出した再びの謝罪。それを受けたオウギはゆるゆると頭を振る。

「いえ……少し驚きはしましたが、そこまで謝られる程の事でもございませぬよ。元より此方はくノ一の端くれ、肌を見られる程度、大したことではありません」
「は、はぁ……」

 オウギの答えに何とも言えない相槌を返せば、少しの間を置いて、未だに床に膝を着いたままの守一郎の前に、オウギもまた膝を落とした。
 目と目が合い、守一郎は思わず僅かに仰け反る。

「寧ろ、先程のは、気を抜いていた私が悪うございます」
「はあ……」

 また、曖昧な返し。守一郎の顔は、未だに熱い。
 オウギの困った様な表情に、笑みが混ざり、苦笑になる。

「顔立ちは良く似ておられるのに、気質は少し違いますね」
「……え? あ…………ひい爺ちゃん、と、俺が、ですか?」

 オウギはこくりと頷く。浮かんだ苦笑がほんの少し柔らかくなった。

「心根は、どちらも良く似ている様にも、思いますけれど」

 ゆっくりと立ち上がったオウギが、守一郎へと手を差し出した。

「立てますか?」
「は、はい!大丈夫です」

 守一郎は、慌てて立ち上がる。
 掴む事の無かったオウギの手は、少しだけ所在無げに揺れて、やがて静かに下ろされた。

「本当に、すみませんでした」

 オウギは三度目かの謝罪に、目を瞬いて、微かに首を傾げながらまた柔らかな苦笑を浮かべる。

「本当に、お気になさらないでください」

 守一郎の言葉を半ば繰り返す様な口調で言ったオウギは「参りましょうか」と一言、廊下を歩き出して、守一郎もまたその半歩後ろをのろのろと歩き出すのだった。

.
次へ
前の章へ  

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ