さて、月霞むその夜を抜け

□開いた場所へ染みる
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 オウギが事務室にて、朝の挨拶と共に秀作から仕事を預かった旨を伝えれば、作造は溜め息と共に全く小松田君は云々と秀作に対する苦言をぶつくさと述べた後、「そういう事なら行って来なさい」とオウギを送り出すのであった。作造の独特な面立ちが、険しくなったり笑ったり等器用に百面相を見せるのに少し圧倒されつつ、オウギは事務室を後にした。

 作造に教わった通りに、職員棟から教室棟と呼ばれるらしい建物へと向かう。
 此処に始めて来た時の逃走未遂の折りにも感じた事だが、此処の敷地の構造は複雑である。
 内部に行くに連れて、練塀が増え、進む者の視界を遮る上にどの棟の造りも似たようなものになっている。手狭な道もあれば、開けた場所もあり、守一郎から教わった罠の印も内部に行く方がより多いのだが全く無い場所もあり何かしらの決まり事があるのだろうと推察できた。
 ともすればあっという間に迷いそうであり、現にあの逃走未遂ではオウギは脱出は愚か彼等の思う場所に追い詰められている。守備に特化した山城の様な場所だとオウギは思った。唯一現在地を測れるものが鐘楼で、それを時折確認しながら着いた建物は、着いてみれば職員棟の直ぐ隣で、自分の道程を振り返ったオウギは成る程まんまと迷わされたなと内心苦笑する。大勢の気配と子供達の声がする事から見て、此処が教室棟で間違いは無いだろう。

 作造からは、一年生達の教室は二階にあると聞いていた。思っていた以上に時間が掛かった事もあり、オウギは足早に階段を駆け登り、教室へと向かう。

 子ども達の声が大きくなってきた。どうやらどの部屋でも兵法書を唱和しているらしい。
 三つ並んだ部屋の内、ぴたりと揃い、はきはきとした声が響いている部屋の前に立ち、これもまた、作造に教わった通りに戸を叩く。
 唱和の声がぴたりと止み、一瞬の間を置いて、中年寄りの教師が出てきた。

「授業中に失礼致します。此方、事務室より預かって参りました」
「ご苦労様です」

 勿体振った雰囲気と表情をしたその教師の肩越しには、齢十ばかしの子ども達が皆一様に真っ直ぐに背筋を伸ばして文机に向かう姿が見えた。どの子も皆、きりりとした利発そうな風情であった。
 こほん。と、咳払いが聞こえた。繁々と見過ぎていたかと、オウギは姿勢を正す。

「失礼致しました。皆さん、良く励まれておりますね」

 見て思った事を伝えれば、その教師の勿体振った表情に、僅かな喜色が浮かびだした。入り口を遮る様にしていた姿勢も少し変わり、身体を斜めに構えてオウギに教室を見せる様な体勢となる。

「……いえ、私は教科担当の安藤夏之丞です。此方は一年い組。学年では最も優秀な生徒達です。皆さん、挨拶を」

 夏之丞がそう声を掛ければ、子ども達は一斉に立ち上がり、「おはようございます」と、オウギに頭を下げた。声も動きもぴたりと揃った子ども達の中には、あの食堂で助け起こした少年とその学友もいる。成る程、彼等はこの組の生徒であったか。
 目が合えば、少年は頬を赤らめて一瞬決まり悪げに目を泳がせつつも、小さく笑みを浮かべるのだった。
 オウギも彼等に挨拶を返す。夏之丞はゆっくりと頷いて、「では、続きから」と、子ども達に呼び掛けながら教室の中へ戻って行った。再びはきはきとした声で唱和を始める彼等、オウギはもう一度会釈をし、戸を閉め、次の教室へと向かう。

 一年い組の隣の教室も、兵法を唱和している様なのだが、その声は隣のい組と同じく良く揃ってはいたが、比べると幾分か、いや大分と覇気に欠け弱々しく聞こえる。
 戸を叩けば、きゃっ。と、小さく、子どもの叫び声が聞こえた。
 何事かと一瞬身構えたオウギの前に、教室の戸が開き、い組と同じく一人の教師が出てきた。
 年の頃は壮年ばかしかと見えるが、働き盛りと見るには余りにも生気に欠ける。猫背気味の背中、青白い顔の中でじとりとした陰気な眼差しがオウギを見る。

「……貴女は、学園長先生のお客人の…………何用でしょうか」
「授業中、失礼致します。事務室より預かったものを持って参りました」
「はあ、それはご苦労様です……ほら、皆さん、湊川さんです。怖いものじゃあ無いですよ」

 男がその見た目に違わない生気に欠ける声で教室の子ども達に声を掛ければ、子ども達は一様におどおどとした眼差しでオウギを見て、ばらばらと頭を下げる。

「……驚かせた様で、申し訳御座いません」
「ああ、いえ……私が教えています一年ろ組の生徒達は、私の影響でか、どうにも怖がりでして……」
「はあ、」

 先程のい組の生徒とはまた随分と雰囲気が違うと、オウギは面食らうものを覚えながら子ども達を見る。良く見れば全体的にはおどおどとしながらも中には目が合えば微笑みかけてくる子や、興味深そうに繁々とオウギを見ている子もいた。

「慎重さはありますし……それさえなければ……こう見えて中々大胆な子もいますし、皆いい子達なんです。ああ、申し遅れました、私は教科担当の斜堂影麿と申します」

 影麿が差し出した手には風呂敷が被さり乗っている。オウギがそこに書類の束をそっと置けば、影麿は静かに頭を下げ、音も無く戸を閉めた。

 はふ。と、オウギの口から何とも言えない息が溢れた。
 何ともはや、同じ子どもでもこうも違うものかと、驚くと共に、僅かばかし、胸に引っ掛かる何かがある。
 何であろうかと、胸中を過るものを考えながら、オウギは次の教室へと向かった。

 保健室で療養中の頃、善法寺伊作や斎藤タカ丸から、生徒達がいろはの三つに組分けされているのは聞かされていた。さて、一年い組、ろ組とくれば、だ。オウギが立った戸は、他の組と同じく唱和の声が聞こえるが、今までと比べると揃っているとは言い難く、幾分か正しく読めているとは言い難い声も混ざっている、然し、声の元気さは一番であった。
 タカ丸言うところの『学園一番のお騒がせ組』の子ども達は、件の療養中にオウギを訪ねてきてくれていた。あの賑やかな時間を思い出したオウギの頬は、知らず僅かに緩むのだった。
 読み進める毎に、怪しげな部分が増えていく唱和を聞きながら、オウギは戸を叩こうと徐に手を上げた。
 のを、教室からの軽く手を打つ音に遮られる。

「はい。一旦止め! では、先程読んだ……(これ)の故に勝兵は先ず勝ちて(しか)る後に戦いを求め、敗兵は先ず戦いて而る後に勝を求む。……という一節から、戦いに於いて重要な事とは何であるか、分かる者はいるか?」

 苦笑が混じった様な、若い男の声。
 教室は先程と打って変わって、一瞬でシンと静まり返った。

「はい! 土井先生!」
「おっ、よし団蔵! 答えはなんだ?」
「それ、日本語ですか?」
「だあっ!?」

 ガタガタと何か崩れ落ちる様な音がした。

「兵法書だよ。元は漢の言葉」
「お、お前……団蔵……今までこれ何だと思って読んでたんだ……」

 利発そうな子どもの声と、先程の男の、絞り出すような声。
 少しの間が開いて、いやぁ。と、決まり悪げな、然し惚けた声が聞こえる。

「……変わったお経だなぁって」
「あ、僕もそれ思ってた」
「俺も俺も」
「ぼくもぉ」

 ガンガンと、何やら穏当でない音と呻き声が聞こえる。
 オウギは少し呆れつつも、戸を叩くのだった。

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