さて、月霞むその夜を抜け

□水底に積もるように
1ページ/3ページ


 何だろう。腹の辺りがぐるぐるするというのか、妙な感じだ。

 と、守一郎は首を捻る。

 変なもの食ったっけか。いや、今朝は食堂で食べているからそれは無いか……ああ、そうだ。昨日しんべヱから貰った、び、びす……なんとかつぅ南蛮の煎餅みたいなの。腹の調子が変な気がするのは珍しいもんを食べたせいだろうか。

 今日の午前は、守一郎達の学年は実習前の調整をかねての休講日である。皆各々自習や鍛練に励む中、仕掛け罠について教わる約束をした筈の喜八郎が朝食後直ぐふらりと何処かへ消えてしまったと嘆くタカ丸に、それなら自分も教わりたいから探すのを手伝おうと申し出たのだった。
 喧騒をやや苦手とする喜八郎の事だ。穴堀りに興じていないならば、静かな場所だろうと考え、辿り着いたのは生徒が出払っている教室で、守一郎の予想通りにそこには喜八郎がいたが、同時に予想外な事に、そこにはオウギもいたのだった。
 日に照らされた教室の中、守一郎が立つ入り口からは、眠たげな喜八郎と、彼と文机を挟んだ位置で座るオウギの後ろ姿。二人は、ぽつりぽつりと何事か言葉を交わしている。談笑という程和やかでは無いが、日溜まりとなった窓際の中、それは何処か弛んだ穏やかな空気を纏っていた。

「ま、あなたがどう思っていようと僕には関係無いし興味も然程無いです」
「ならば、態々、聞く必要もございませんでしょう」
「僕は見たままを言っただけ。そっちが勝手に話し出したんじゃないですか」

 オウギが微かに首を傾け、静かな溜め息を吐く。僅かに鼻梁が見えて、表情は目には見えなかったが、その溜め息の柔らかさからしてきっと穏やかなものだと守一郎は思う。

「……ええ、そうでございましたね。…………気に食わぬ、というよりは、とある方の事を思い、口惜しく思うただけにございますよ」
「ふぅん」

 今まで、己の事を話さなかったオウギが、初めて、胸の内の様なものを口に出した。喜八郎は全く興味無さげである。守一郎は知らず、身動ぎした。彼の動きに合わせて戸口の敷居が微かに軋んだ音を立て喜八郎が此方を見た。遅れて、オウギも振り返る。
 守一郎の予想通りに、その顔や、漂わせる雰囲気からは、出会って此処に来てから常にあった張り詰めた様な堅さがやや和らいでいる様だった。
 潜めている事が多い眉が、穏やかな弓なりの形を結び、やや広い額が一層、円く見える。

 そうか、この人は、この様な顔をしているんだ。この様な顔ができるんだ。と、守一郎は思う。

「守一郎殿」

 と、己の名を呼ばう声も何処か優しい響きだった。
 彼女が安らいでいる。それはきっと喜ばしい事であるし、彼女が学園に馴染む事を守一郎は願っていた。だというのに、浮かぶ笑顔が苦笑混じりになってしまうのは何故か、この腹のぐるぐると関係があるのだろうか。
 嗚呼。でも良かった。彼女が自分の事を少し話してくれた。穏やかに過ごせている。それが自分の側であろうが無かろうが、些細な事だ…………。

 ………………自分、の?
 ……自分の、側で無かったら、嫌だったのか?
 …………いや、そんな事は無い。だって、俺は彼女を助けたいと思っているだけなんだから。俺は、俺、は、
 ……マツホド忍者隊副長。曾爺ちゃんから聞かされてきた物語の中の、彼女は強い強い忍者で、俺にとっては英雄で、憧れで、だけど、目の前に現れた彼女は俺と変わらないような女の子で、それでも六年生と渡り合えるくらい強くて、だけど何時も不安そうで迷い子みたいに心許無げで、なのに何か覚悟を決めている様で、嗚呼。一体何だというんだろう。また胸がぐるぐるとしてきたぞ……

「ろ、う……ちろう……守一郎ってば」
「うっ!? あ、はい!」

 直ぐ目の前に、タカ丸の怪訝そうな顔が覗き込んできた事で、守一郎は軽く肩を震わせながらも我に返る。目を白黒とさせている守一郎を見て、タカ丸は困った様な苦笑を浮かべた。

「んー、聞いてたかな……?」
「……い、いえ、すみません。聞いてませんでした」

 素直にそう答えれば、タカ丸は益々眉を下げて苦笑する。

「えぇと、ね。喜八郎が結局、気乗りしないらしいから、代わりにオウギちゃんに何か教わろうかなって思ったんだけど、守一郎はどうする?」
「へっ?」

 全く思ってもみなかった唐突な展開に、守一郎は呆けた顔で呆けた声を上げる。直ぐ様横目に見たオウギは、何時も良くしている眉を軽く潜めた曇った表情である。

「ですから、タカ丸殿。私はそれについては承知しておりませんし、承知しかねますと言うた筈です」
「えぇ? ちょっとだけでも駄目?」
「ええ、なりませぬ」
「なんで?」
「なんでも、なにも……私は他人に教えれる様な大層な術は持っておりません。それに、間者である疑いの晴れていない者に教えを乞うなど、それこそ何故ですか」
「そんな事無いよ。オウギちゃん、六年生を相手に出来るくらい強いじゃない。それに、疑いなんてきっともう殆ど無いと思うな」

 タカ丸のそれは流石に楽観視が過ぎるのでは無いかと、守一郎は僅かに引きつる。オウギは何かを言わんとしようと口許を微かに動かし、然し結局何も言うことも無く、酷く居心地悪気に顔を俯けてしまった。

「少なくとも、僕達はオウギちゃんを怪しいとは思っていないよ。ね、守一郎、喜八郎」
「え」

 また不意に此方へとふられて守一郎はぎょっとする。喜八郎は興味無さげに猫の子の様な大あくびを一つしたのみ、守一郎はそれを横目に見て、それから此方をにこにこと見ているタカ丸と曇らせた表情のままのオウギを見比べる。

「……は、はい。俺も、疑ってなどいません」

 それは本心からの言葉なのだが、口に出した途端に何故か酷く嘘臭く聞こえた気がして、守一郎もオウギの様に顔を俯けたい気分になった。然し、件のオウギが少し目線を上げて此方を見た為に動けなくなる。見返した眼は何処か薄暗い。オウギはゆっくりと口許に微かな笑みを浮かべた。それは嘲りの様だったし、悲し気でもあったし、笑うより他に無いという捨て鉢なそれにも見えた。守一郎の腹の『ぐるぐる』は何時の間にか鈍く痛むものに変わって来ている。

「……御気持ちは、嬉しく思いますが、やはり、なりません。仕事も頂いているなか、勝手はできませぬ」

 ゆるゆると首を横に振るオウギに、タカ丸は「んー……」と、暫し考え込み、それからパッと表情を明るくする。

「じゃあさ。吉野先生に了解貰おうよ」
「は、」

 呆けるオウギを他所に、タカ丸は「さっそく、聞きに行ってみよう」と教室を出て行く。
 オウギは呆けた顔で、軽やかに走り去る足音を見送り、それから深々と溜め息を吐き、守一郎を見る。何とかしろとでも言いたげなその目線に、守一郎は引き釣った苦笑を浮かべるしか無い。

「取り敢えず、追いかけますか?」
「……ええ」

 オウギが静かに頷き歩き出す。その半歩後ろを守一郎が着いていき、更に数歩後ろから喜八郎が着いてきた。

「寝るんじゃなかったのか」

 少し呆れた声で、守一郎が聞く。

「気が変わった」

 欠伸混じりにぞんざいに、喜八郎は答えた。

.
次へ
前の章へ  

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ