さて、月霞むその夜を抜け

□柔らかな牙、若しくは冷たい壁
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「おい、貴様! そこで何をしている!!」

 突如、雷鳴の如く響き渡ったその怒鳴り声に、守一郎は肩を跳ねさせながらも、それが誰に向けてのものかを咄嗟の内に察してオウギの腕を引いて己の背後へと隠した。
 そこへ、演習場の向こうから此方へと足早に近付いてくる怒声の主。

「浜、何故こいつが此処にいる!?」

 六年い組、潮江文次郎の詰め寄ってくるその表情は正しく鬼の形相。守一郎の直ぐ背後で、ひぃっと息を呑む音がする。恐らく、オウギではなく、タカ丸が発したものだろう。どさくさに紛れてタカ丸まで自分の背に隠れていることに一瞬戸惑いを覚えるが、至近距離でぎろりと睨み付けてくる文次郎を前にして、後ろを振り返る間は無かった。

「……た、鍛練に付き合って頂いています」

 守一郎がそう答えれば、文次郎の眉間の皺が更に二、三本と増える。

「此処は演習場だ。間者の疑いのある者を、何故、易々と武器が手に入る場所に通しているんだ」
「ですから、此方の鍛練に付き合って頂いたからです」
「…………無用心だと言っているんだ。確かに何故とは言ったが、俺の此れは問いでは無いぞ」

 尋問さながらの威圧感を放つ文次郎に、じたりと嫌な汗が守一郎の背中を伝う。袖を引くのは恐らくタカ丸か。此処は大人しく退けと言っているのだろうし、守一郎もそうすべきなのだと思う。思うのだが、

「……お、言葉を、返しますが、」

 しどもどと、小さくとも出てきたのは反論の言葉。文次郎の威圧感が更に増したのを感じながらも、開いてしまったならえいままよと守一郎は口を動かす。

「彼女を、学園に雇うと、学園長先生がご判断された時点で、間者である疑いは晴れたも同然です。先輩は、学園長先生のご判断が間違いであると思っておられるのですか」

 微かな衣擦れと、張り詰めた様な息遣いは、オウギのものだ。

「守一郎殿」

 咎めるような、囁き声が自分の名を呼ぶ。守一郎は振り向く事も答えることもしない。

 文次郎は顔の険しさを崩さず、ふっと嘆息めいたものを口の端から溢した。

「……常、最悪の事態を想定して事に当たるのは忍として必要な心構えだ。お前は何の為にその女に着いている。まさか、本当に只の世話係のつもりなのか」

 守一郎は怯みそうな自分を押さえ付け、文次郎を見返す。

「ええ、そうです。俺はオウギさんの世話役です。疑念が忍の防具である事は承知していますが、それにおいても、此方に当人であるオウギさんがいるにも関わらず、先輩が言われた事は非礼では」
「守一郎殿!!」
「おいこら文次郎! てめぇ、何やってんだ!!」

 オウギの声に被さった新たな怒鳴り声。文次郎は忌々しげに口許を歪めたが、守一郎は僅かに安堵を覚えた。

「何だって俺の後輩に絡んでんだこの野郎!!」

 六年は組の食満留三郎であった。守一郎の所属する用具委員会の委員長である先輩は、まるで守一郎達を悪漢から庇うかの様に文次郎との間に身体を割り込ませ立ち塞がる。その後から着いてきた喜八郎はひょいっと守一郎の背後、タカ丸の隣へと身を寄せてきた。

「連れてきてくれたの?」

 留三郎を。という意味だろう、タカ丸の密やかな問いが聞こえた。振り返って見れば、喜八郎は読みにくい無表情でこっくりと頷く。

「偶々見掛けたので、守一郎が潮江先輩に絡まれてます。って言ったら、もうあの人、一目散でしたよ」
「そ、そうか……」

 喜八郎なりに機転を利かせたのか、はたまた、単なる気紛れだったのか、助け船の様にも寧ろ更に荒波を立てたようにも思えどうにも判断の着かない展開である。タカ丸も守一郎と同じく、事態の微妙なややこしさを感じている様で、喜八郎に向けるのは引き釣った苦笑であった。

「バカタレが。状況を良く見て物を言え。お前んとこの後輩が危機感も糞もねえ事をしてやがんだよ」
「はあ? 何言って……って」

 振り返った留三郎の表情は、守一郎の背後に佇むオウギを見てはたと固まった。

「守一郎、お前、」
「鍛練に付き合って頂いているんです。吉野先生の了承も得ています」

 留三郎が何か言う前に、被せるように守一郎がした説明は声色や表情のせいかどうにも弁明めいて聞こえる。
 留三郎は一瞬、呆けた後にうろと目をさ迷わせ、難しげに眉根を寄せて顔をしかめる。

「……先生が了承の上、ならば、まあ…………」

 ぶつぶつと歯切れ悪い物言いで頭を掻く留三郎は、やがて、ふっと息を吐く。

「……問題、無いな」
「んな筈があるかバカタレ!」

 絞り出す様にして口にした留三郎の結論は文次郎に一蹴され、途端、彼の眉はぎりっとつり上がった。

「バカタレバカタレうるせぇよ。そっちこそ良く考えて物を言えや。先生が了承されたという事は、大した危険は無いか、あったとしてもその責は判断した先生にあるだろうが」
「だとしても、軽率なもんは軽率だ。黙って見過ごせつぅのかお前は」
「そもそも疑わしき者に真っ向から疑わしいなんて言う馬鹿がいるか。軽率つぅならお前の言動もだぞ文次郎」
「ああ? じゃあ、お前はこの女が何もしねぇって言い切れるのか? お前の可愛い後輩が危険じゃないと言い切れんのかよ」
「それと、守一郎を責めるのは話が違うだろう」
「間違っているならば誰かが正す。年長者たれば尚の事だ。だからてめぇはヘタレなんだよ」
「ヘタレ関係ねぇだろ!つかヘタレじゃねえわ!」
「あるわバカタレ!ヘタレじゃてめぇは!」
「それしか言えねえのかアホ!」

 どちらの言い分にもそれなりに利がある様なのだが、今回は文次郎の方が二言三言、余計な発言が多い様に思う。然しそれに簡単に煽られる留三郎も留三郎で、要は何方も何方、五十歩百歩。徐々にお馴染みのやるかやらいでかになりそうな雰囲気に守一郎はタカ丸を振り返る。タカ丸は無言で首を横に振り、喜八郎は涼しい顔で、くいっと彼方を指差した。今の内にずらかれという事なのだろう。
 然し、と、守一郎は視線を落とす。そこにはオウギが、陰った無表情で佇んでいる。
 先程の、棒手裏剣を前にした時の硬い表情が蘇った。何かに怯えている様な嫌悪している様な、彼女の揺れる眼。今も、微かに揺れている。

ーーオウギさんは、この人は、決して他人を無闇に傷付けたりする様な人じゃない。ーー

 それは、守一郎の確信で、その事を、出来るならば先輩方にも分かって欲しいと思う。そう思って、守一郎は、最早関係の無い言い争いをギャンギャンと交わしている二人を振り返り、何か言わなくてはと口を開く。

「あ、の、せんぱ……」

 然し、それは中途半端に言葉にならず途切れた。
 途切れさせたのは、オウギである。オウギが、守一郎の腕をぐっと掴んだ。
 振り返って見下ろしたが、オウギは尚も俯いたまま、微かに見える表情は感情の欠けた様な無表情。ただ、守一郎の腕を掴む指と、手首の微かな震えが何よりも饒舌に思えて、そこで漸く守一郎の足が動く。
 彼女の肩に手を置いて、踵を返して、その場をそっと離れれば、後から着いてきたタカ丸も、彼女の直ぐ背後に立ち、堅く強張っている様なその背中を隠した。喜八郎は、特に何も気にしてない風情で、守一郎達を追い越したが、決して遠くに離れていく事は無く、そのまま何と無く、守一郎はオウギを連れて、喜八郎の歩みに着いていくのだった。

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