連載

□時の雫 後編
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 高層ビルも鉄塔も遥か下に見える。急激に離陸速度を上げたので、二人の手は繋がったままだった。厚い雲を突き抜けて青一色の世界まで来たところで身を起こす。澄んだ空気を吸うとようやく体が落ち着いてきた。
 左門がはじかれたように彼女の手を離す。理性が戻ってきたのか、とてつもない羞恥を感じたからだ。せめてつれない態度をとらずにはいられない。彼女がそんな左門を意に介さず口を開く。

「これからどうするの?」
「幽界まで行く。人間界と同じように、暮らしていけるだけの設備も整ってるからね。ていうか、ついてきていいの天使ヶ原さん?」
「左門くんが連れてきたんでしょ!」
「は? 一緒に行くって言いだしたのは君だよね? 自分の発言に責任持てないの?」
「お前こそ自分の行動に責任持て!」
 普段通りのやりとりができて胸を撫でおろすと、彼女に背を向ける。

「……左門くん、さっきの話だけど私…」
 安堵したのもつかの間で、肩を震わせる。先程の求愛じみた科白を指しているのはすぐわかった。はっきり告げてしまった以上、有耶無耶にはできないようだ。地上ではないのでもう逃げ場はない。観念するしかなかった。
「気にしなくていいよ。言ってみただけだから。君はすぐに家に戻してあげるよ。」
「……」
 
 答えないところをみると、やはりすべてを捨てる気はなかったらしい。知り合って間もなかった頃ならともかく、いまは彼女がどれだけ家族に愛されているか知っている。処分を覚悟してまで力になってくれる友人たちもいる。天使ヶ原桜とは、彼らの存在あってこそ咲き誇る華だ。左門は知っている。そういう彼女だからこそ、闇の濃い自分を受け入れてくれたのだということを。
 この一週間他の誰よりも優先してくれて、ここまでついて来てくれただけで十分だ。その代わり――
 
「あ、そうだこれ」
 彼女が制服の脇から巾着の小物入れを取り出すと中身を掌にあける。見覚えのあるものだ。
「校内ではめられないから、お守りにして持ってたの」
 先日左門が渡したアクアマリンの指輪だった。
「ひとまず無事に逃げてこれたのはこれのおかげでもあるのかな」
「さあね。傷も内包物もあって透明度も高くない。グレードの低い石だよ。パワーストーンの効能に変わりはないけどね」
「そうなの? でも私はこの石好きだけどな」
「どうして?」
 石を見つめながら優しげに微笑む彼女の顔は、左門に海辺で生き方を変えてもらった感謝を告げられた時を思い起させた。
 
「だって傷がたくさんあるから、光の加減によっていろんな色になるでしょ。それって過去の努力の積み重ねでできた、今の左門くんみたいだから」
 
目の奥が熱くなるのを感じる。たったひとりの理解者の言葉に心を揺さ振られた。どんなに血のにじむ努力をしても、左門は自分を肯定することはできなかった。彼の人生を誰もそんな風にいってくれなかった。
 ずっと彼女を地の底に落としてやろうと策を巡らせてきたのに、いつのまにか左門の方が天国に連れて来られてしまったようだ。彼の長年培ってきた意地もプライドも、彼女の前ではどうでも良くなってしまう。こんなことは今までなかった。涙がこぼれそうになるのを前髪の陰で耐える。

「左門くん……?」
 彼女がどうしたのかと顔を覗き込む。左門は目が潤んでしまっているのを自覚したが、構わず見つめた。肌が触れそうなほど近い所で二人の目が合う。彼女に初めて声を掛けられた時も、陽に照らされた宝石のように綺麗な顔立ちだと思ったが、本人を深く知った今はより輝きが増してみえた。今ならきっと素直に言える。
「天使ヶ原さん、悪いけどこの先は一緒にいられなくなるかもしれない。でも予告しとく。いつか――」
 左門は彼女の左手を取ると、指先で薬指の付け根を掴む。右手に置かれた指輪をそっと持ち上げる。ゆっくりとはめると誓いの言葉を紡ぐ。

「必ず君を奪いに行くから」

 彼女の大きな瞳が更に大きく見開く。頬がみるみるうちに朱に染まっていくのがよくわかった。艶のある唇は動揺しているのか、途切れ途切れの声を発している。無理もないと左門は苦笑する。まさかさんざん冷たい言葉をかけてきた男から、このような甘すぎる睦言を聞かされるとは思わなかっただろう。だがこの一週間の彼女の言動から、勝算はありすぎるほどある。自惚れではなく。たとえ無かったとしても口説き落としてみせる。
 彼女が恥らうように手を引こうとするので、力を込めて両手で包み込んだ。仕草とは裏腹にそっけなく言い放つ。
「……もう校内じゃないんだから、いいよね?」

 左門は何故恋人たちが指輪を送るのかわからなかった。今なら実感できる。どんな時も相手を繋ぎとめておくためなのだと。
 誰かと一生を共にしたいなんて考えたこともなかった。どうせ長くは生きられない道を歩んできたのだから。特殊な生まれや育ちを悔いた事もあった。でも全ての時は、今この手を取るために流れていたのだと心から言える
 こんな人生を笑顔で照らしてくれるのなら、ずっとその笑顔を守り続けてみせる。
 たとえ離れていても、彼女の心は誰にも渡さない。自分だけのものにしてみせると決意を固める。

 細い指に収まった紺碧の雫は、あの日の海と同じように二人を映し出している。
 羞恥で俯いてしまった彼女から返事を聞けるのは、まだ時間が掛かりそうだ。

 空と海の色が交じり合った世界で、左門は手の中にある幸せを愛おしむようにかみしめていた。



 九頭龍から戻って来いと連絡が来たのは、3日後だった。
 左門と彼女の行動に感化された女子たちが署名運動を行っていた。口には出さなくても団員の横暴に反発していた者は多かったので、8割の生徒が署名した。教師は次の定期テストで成績を上げることを条件に、撤回を認めた。
 テストの結果がでたらまた交際禁止が検討される可能性は残ってはいるものの、生徒たちは以前の活気を取り戻しているという。
 騒動を起こした5人も、制定前ということでお咎めなしとなった。署名運動が起こったため処分を下すほうが厄介な事になると、教員たちは判断したようだ。
 騒ぎが大きかったわりにはあっけない結末だ。一度は去ると決めたものの、けして嫌いな学校ではない。想定していたよりも状況は悪くないので、左門は戻ることにした。

 翌日登校してきた左門と彼女は、人垣に囲まれた。左門は先に行くねと戸惑う彼女を残して教室へと向かう。
「天使ヶ原先輩、先輩たちの愛を貫く姿に感動しました!」
「私もてっしーみたいに一途に好きになってくれる彼氏がほしい!」
「天使ヶ原さん、新聞部です! 今回の件で何か一言!」
 後に残された彼女が何か答えている。左門と一緒にいたいという彼女の素直な想いが、校内の問題を解決に導いた。力を貸しただけでヒーローになる気はないと、左門は考えていた。

 ふたりの日常が戻ってきた。以前と違うのは、共に過ごす時間がかけがえのないものに感じるということ。

「左門くん! 掃除当番サボらないでよ!」
 六時限目の鐘が鳴ると、屋上へと向かうべく教室を後にする。
「めんどくさいから、天使ヶ原さんやっといて」
「ちょっと待てー!」

 全校生徒を騒がせたわりには、変わらぬやり取りをする二人を友人たちが見守っていた。
「なあ、本当にあいつら付き合ってねえの?」
「本人がそういってるんだからそうなんだろ。でも、良かったよなてっしー元気になって」
「まあでもさ……」
 九頭龍が何かを察したのか核心を突くように告げる。

「付き合うようになるのも、時間の問題じゃね?」



 アクアマリンの石言葉は「素直」「幸せな結婚へと導く」であるということを、左門はずいぶん後になってから知ることになる。








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