連載

□時の雫 中編
1ページ/2ページ

 海沿いの坂道を転がる風が、左門の肌に心地よくまとわりつく。空が高くなっても、都心はまだ蒸し暑いが郊外は秋色に染まっている。携帯も通じない田舎はもうこりごりだから都会にでてきた。ただこの辺りのように湿度の低い所にすれば良かったなと、物思いにふける。しかし、いま数歩先を歩いている彼女に出会うこともなかっただろう。青紺の布地をひるがえさせながら、気持ちよさそうに歩いている。

 昨夜の電話中、何とか気を取り直して彼女から聞き出したところ、校則を撤回してもらうよう教師に交渉していたが、徒労に終わってしまった。せめて最後の一週間を、左門と共に過ごしたいとの申し出でであった。学校関係者に見つかると面倒なので、遠く離れた街まで来ることにしたのである。

「ありがとね、左門くん付き合ってくれて」
「別に、天使ヶ原さんの我がままを聞くのはいつものことだから」
 校内の重苦しい空気から解放されて足取りの軽い彼女とは対照的に、不愛想な返事になってしまう。「二人きりで誰も知らない所へ行きたい」だなんて、駆け落ちの誘いかと勘違いしてしまったからだ。
 サキュバスから聞かされた昭和のドラマじゃあるまいしと吐き捨てたくなる。まだ幼かった左門に「周囲の反対を押し切って、何もかも捨てての逃避行なんてロマンチックよね〜。私も誰かさらってくれないかしら…」などと夢見がちに語っていたのである。
 動揺してしまったのが腹正しい。屋上で目隠しをされた時といい心臓に悪い振る舞いは止めてもらいたいが、彼女に男を落とす特訓をさせるように仕向けたのは当の左門なので、文句を言う資格はなかった。
 だが久しぶりに共に過ごせるので胸躍らせてもいた。口の端が上がらないように真顔を貫く。

「ね、あれ食べようよ?」
 高台へと続く道の両側には、甘味や軽食の店が並んでいる。頂上の公園に行く客層を見越しての動線だ。彼女が指したのはクレープ屋のメニュー看板だ。果物や野菜の鮮やかな色彩がいかにも購買意欲をそそる。
「いいけど珍しいね。委員長の君が買い食いなんて」
「最後だから特別だよ」
 甘いものを断る理由はないので従う。
「何にしようかな。いっぱいありすぎて迷うね」
「チョコバナナに決まってるよ」
「好きだな!人のダイエット妨害しにきたときもそれだったよね!」

 吟味した後列に並ぶ。平日のせいか制服姿の学生や子連れの主婦ばかりだ。
 左門は気が長くないのであまり行列のできる所には行かないが、嬉しそうな彼女と待つのは案外悪くないと思った自分が以外だった。10分程で二人の順番が来た。生地を焼く芳香が期待を高める。

「チョコバナナとフルーツミックスください」
「はい!そこのカップルチョコバナナとフルーツミックスね!」
 青年の店員が勢いよく応えると同時に、彼女が赤面した。
「違います!」
「あれ? 注文間違ってた?」
「そっちじゃなくて! 私たちただの友達ですから!」
 彼女との仲を囃し立てられるのはこれで何度目だろう。誰も彼も左門の内なる葛藤も知らずに好き勝手な事をいう。存在そのものが生き方を否定するような彼女と付き合っているだなんて、彼のプライドが許さない。だからからかわれる度に否定してきたのに。
 照れなくていいと返している店員に、左門は余計な事ぬかすなさっさと作れと内心悪態をつく。しかし口からは意外な言葉がでてきた。

「そうです」
 思いがけない返答に店員と彼女が同時に左門を見る。
「僕らカップルなんで、二人分を一枚にしてもらえませんか? 一緒にかじりたいので」
 店員はあっけに取られ、何故か列の女性たちからは黄色い歓声が上がる。
「な……何言ってんだ、バカ!!」
 羞恥に身を震わせた彼女に襟首を掴まれて、左門は引きずられていった。


「買って来たよ」
 頂上にある公園にたどり着く。先に来ていた彼女はベンチに座っていた。左門は再び店に戻って買い損ねた品を手に戻ってきたのだ。しかし本人は機嫌を悪くしたままなのか、こちらに背を向けたまま振り返りもしない。
「……どうして、あんなこと言ったの?」
「どうしてって……」

 何故かと問われれば、昨夜の爆弾発言の仕返しをしたくなったからかもしれない。以前教室で抱きつかれた事といい、彼女は天然で突然何をしでかすかわからないところがある。少しはこちらの身にもなってほしいという牽制だった。
 また左門は日頃から彼女に対して試し行為をすることが多い。こんな自分であっても見捨てずについてこれるかというかのように。母親の愛情を試す幼子そのものである。彼女は大抵は文句を言いつつも許してくれるのが常であったが、今回はかなり怒り心頭な様子だ。ここで正直に人をたぶらかしたお返しと話せば、ますます火に油を注ぐだろう。
 
「酷いよ。いつも私を嫌いっていってるくせに…!」
 責める口調は変わらないのに、どこか甘さがにじんだ科白だ。払拭したくて片手の物を差し出す。
「食べないの?」
 純白のクリームにカットされた5種の果実が宝石のようにちりばめられている。目を輝かせた彼女は、礼をいって受け取ると頬張った。よく表情を目まぐるしく変えられる女だと思いつつも、機嫌が直ったので左門は安堵して自分の分にかじりついた。
 彼女と一緒に食べると、一人の時より旨味を感じられるのはどうしてなのだろう。幼い頃にあまり甘味を食べられなかった反動で、そればかり食べるようになった。左門と違って、彼女は手作りの菓子を毎日食べられるほど余裕のある家庭環境だ。境遇の差に嫉妬したときもあったが、誰かと共に楽しむ幸福を与えてくれたのも彼女だった。

 眼下には空の色を映し出した海原が広がっていた。夏の盛りを過ぎた水面は穏やかな日差しを受けて白金石のようだ。波の角度によって陽の当たる面が変わっていく。光と影が入れ替わる様がより輝きを増す。鳴り響く潮騒が、青いスクリーンに二人の時を刻む。
「綺麗だね…」
 呟く彼女の横顔をそっと盗み見る。男の自分とは違ってきめの細かい白い頬だ。こちらを向いて微笑んだので慌てて目を反らす。跳ねる心臓を落ち着かせるために言葉を探す。

「何で、海に行こうって言ったの?」
「子供の頃にお母さんから聞いたの。落ち込んでるときは海を見るといいんだって。心を浄化して穏やかな気持ちにさせてくれるんだって」
 言われてみれば、左門の中で校内の偽善的な生徒たちに対する怒りはすっかり消えている。ただそれは海の効能だけではない気もした。
「せっかく左門くんと一緒にいるんだから、楽しみたいからね。それに、お母さん結婚前にお父さんとよく浜辺でデートしてたって聞いて」
 左門が手にしていたオレンジジュースのカップが、派手に転がり落ちる。あ、ごめんね今の関係なかったよね!と慌てた彼女が拾い上げた。どんな意図で両親の話を持ち出したのか。思わせぶりな態度に、彼は己がどうなってしまうかわからない恐怖を感じて逃げ出したいのを必死で耐える。

「だけど…いいのかな? 私たちだけこんなことしてて、みんな我慢してるのに」
「は? どこまでお人好しなのさ」
 元を正せば陰湿な生徒が起こした問題で、彼女は何一つ悪くない。むしろ普段から学級委員として務めを果たし、放課後まで教師の用事を引き受けてきた。他の生徒より、ずっと余暇の時間を削って我慢してきたのだ。最後くらい、望み通りにしたところで責められるいわれはない。
「都合が悪くなると手のひら返す連中なんてほっとけば?」
「きっと悪気はないんだよ」
 あくまでも他人を恨まない彼女に、君は自分のことだけ考えていればいい、僕の事だけみていればいいと喉まででかかる。とはいえ、何かあると自分を責める彼女の人の好さに漬け込んできたのは左門も同じだ。今更口にすることはできない。
 
「私だって、個人的な感情で動いてたんだから非難されても仕方ないよ。でも、左門くんには感謝してる」
「何で?」
「君のおかげで勇気がでたから。前の私だったら、先生に反抗するなんて考えられなかった。周りの事情ばっかり気にして、私自身がどうしたいのかもわからなかった。一緒にいられなくなるのは残念だけど後悔はしてないよ」
「…教師の口止めなんて無視して、言ってくれれば全校生徒を操る位できたのに。」
「駄目だよ何でも召喚術に頼ったら。生徒会選挙で総スカンくらったの忘れたの? 左門くんも九頭龍くんも間抜けなんだから、すぐバレるよ。内申に響いたらどうするの? ただでさえ授業サボり気味なのに」
 
 校則に反対するのは進級にも影響する。教師の信頼もある優等生の彼女だからこそできることであった。いくら首席であっても素行の悪い左門と成績も悪い三人組では、最悪の場合落第しかねない問題にも発展したかもしれない。だからこそ彼女は四面楚歌の中、孤軍奮闘し続けたのである。
「せめて皆で一緒に3年になって一緒に卒業したかったから……」 
 打たれ弱く繊細で、勝算がなければ行動できない左門にはとても真似できない。一見か弱そうにみえても、内に秘めた芯の強さを知る度に惹かれずにはいられなかった。

「左門くん、いつも一人で突っ走ってばかりだけれど、一緒にいるとね、優等生じゃなかった頃の私に戻れる気がしてたんだ。だから、ありがとう……」

 柔らかな笑みからは好意がにじみでている。輪郭がほどけてきらめく水面と溶け合うようだ。
 出逢った時から左門にとっての彼女は、自然の精霊を思わせる存在だった。眩しさのあまり、俯いてしまって気の利いた返事もできない自分がはがゆかった。
 遠い日に戻れる気がしたのは左門も同じだ。実家にいた頃緑の精に見守られて、心から召喚術を楽しんでいた日々に。素直な彼女と違って口することはできなくても、共に過ごしているだけで、幼い日に失くしたものを取り戻せる気がした。
 
 彼女に対しては、育った環境があまりにも違い過ぎたため劣等感を抱いていた。誰にでも愛想を振りまき、誰にでも親切な彼女の存在は、母親に自分だけを見てもらいたかった古傷を思い起こさせるものでしかなかった。友人の多さにも引け目を感じていた。それを無くすために足を引っ張り、傷つけ泣かせた時もあった。
 実家や内面の問題なんて考える必要などなかった。ただ一途に召喚術に没頭していれば、誰よりも優位に立てるはずだった。胸の内にある誰にも触れられたくない箇所を刺激してくる者など敵でしかなかったのに。
 
 悪魔に対抗するために身につけた冷酷な仮面の下には、ただの素直で優しい少年がいた。彼女は豊かな感受性でそれを受け止めていた。強がってばかりでひねくれた心が、どれだけ救われたか知れない。
 皮肉にも、当たり前の日常が終わりを告げる時になって、左門は彼女との時間がどれ程大切なものだったか思い知らされた。ずっと認めたくなかった想いも、認めるしかないところまできている。

 水平線が茜色に染まり、夕凪の時間が訪れる。少し肌寒かった風が止んで、左門の身体は睡眠前のように熱を帯びてきた。まどろんでいると肩に重みを感じる。いつも周囲に気を遣っている彼女の誰にもみせない安らかな顔がそこにあった。ここ何日か奔走した疲れが溜まっているようだ。
 寝顔を見つめながら物思いにふける。「最後だからみんなで遊びに行こうよ」とでも言いそうな彼女が、自分だけを誘ったのはありのままに振舞える居場所を求めていたのだと。
 もたれた肩を元の位置に戻そうとして、一瞬ためらった後に手を下ろす。校内でも生活圏でもないから、人目に触れる心配はない。意地を張る必要など何もない。
 
 傍らのぬくもりを感じながら、彼女との日々を思い起こしているうちに、あっけなく夕陽は沈んでいった。今日と変わらぬ明日が来てほしいと願わずにはいられなかった。




次へ
前の章へ

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ