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□お憑かれ様だね、田中くん
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昼間なのに薄暗い廃墟にふわりと漂う甘いバニラの香りと、やわらかにウェーブする白い長髪が上からゆっくりと降りてきて頬を撫で、低いけれどバニラよりも甘い声が鼓膜を擽った。
「ねえ、田中くん。」
ちらりと目線だけで左を見れば、体温のない陶器みたいに滑らかな白滋の肌が触れそうな程の距離で微かな冷気を放出している。アメジストさながらに美しく透き通った、嬉色が隠しきれない紫の瞳と目が合った。

「あの言葉、偽りはないのだね?」

双眸を細めうっとりと微笑む色付いた頬に出来た長い睫毛の影に現実逃避しながらも、俺はこくりと頷いた。




事の始まりは2時間前。そう、たった2時間前のこと。

俺は数人のクラスメイトと共に―今考えると大層馬鹿なことに―『本物』が出ると噂の廃墟に肝試しに来ていたのだが、複数人で行動していたはずなのに、いつの間にか一人になっていたのだ。
ちゃんと全員いるか確認しながら動いていたのに、はぐれた。それどころか、一人になったと気付いてから誰の声も聞こえなくなっていた。明らかにおかしい、もしかしてこれが『本物』の――と恐怖していた俺に語りかける声がする。
背後からするその声は低く甘く、こんな状況でなければ惚れ惚れしただろう声。金縛りに遭ったかのように動けない俺に、背後の声はクスクスと笑いながら近付いてくる。遂に視界の端に白い何かが映った。
どうしようどうしよう、頼むお願いだからそこで止まってくれ、もしくは今すぐ動けるようになってくれ、今すぐここから逃げさせてくれ、なんてことを思っても願いは虚しく。
温度のない冷たい手が、俺の頬に触れてきた。とめどなかった冷や汗が、一瞬で引いた。まだ動かない身体に力を込めようにもそれは上手くいかず。耳元で甘い声が囁いた。

「僕を起こした責任、取ってね。」

その言葉が脳に届いた瞬間、弾かれたように振り返った。散々言うことを聞かなかった身体は自由に動き、すぐ近くにある紫水晶と目が合った。
俺の顔が映った瞳はにんまりと細い三日月になり、見る者を魅了するような人形めいた美しい笑顔を形作る。本当にこんな状況でなければ、惚れ惚れしただろう笑顔。
ふふっ、と小さく笑い声を零した薄い唇がゆっくりと開き、再びあのうっとりするような魅力的な声が言葉を紡いだ。

「君が僕を起こしたんだよ、田中勇樹くん。だから、その責任を取って。…噂は知ってるんだろう?」

噂。その内容を、俺は知っていた。この廃墟に存在するという『本物』の噂を。

『この廃墟に住む女の霊は、かつて恋人と廃墟になる前の美しい家に住んでいた。』
『しかし、ある日彼女は恋人に殺された。恋人は浮気をしていた。彼女が邪魔になったのだ。』
『彼女は恋人を呪い殺したが怨みは晴れず、今も廃墟になった家を彷徨っている。』
『そして、怨みの燃える心を慰めるために新たな恋人を求めているという。』

噂の内容を思い出すと、ザアアーッと血の気が引いていくのを感じた。
こいつなんで俺の名前を、というかそれよりも。
目の前で壮麗に笑う男は、もしかして俺を――というところまで考えて、アレ?と気付いた。
噂の霊は女性。だが目の前にいる明らかに生きていない人は声からしても男。そもそも俺より目線が高い。かなり。10cm以上。
でも、噂では女性。これは…

「…もしかして、なんだけど」
「うん。」
「噂では女性だけど本当は男で、でもそこ以外は本当で、俺を恋人にしようとしてる…?」

美しい笑顔が更に深まり、甘い声は纏わりつく程に濃度を増した。

「当たり。」

絶句。どうすればそうなるのを避けられる?いやもう無理だ、わかってる。今の俺に出来ることは目の前の男の機嫌を損ねないように、これ以上酷いことにならないように善処することだけ。
戦慄く唇と舌を必死の思いで動かし、一言頷いた。

「わかった。」




…というのが10分前のこと。
今は男――スバルは、ふわふわと宙に浮いて俺の首に腕を回し頬を擦り寄せている。バニラの甘い香りと、あまりにも整った顔が近過ぎて恐怖がどこかへ行ってしまった。
はぐれたクラスメイトたちは、1時間半もの間手分けして俺を探してくれていたようだが、見つからず先に帰ったらしい。白薄情なやつらめ。いや嘘、1時間以上も探してくれてたとは思わなかった。ちなみに見つからなかった理由は、スバルの寝床(なんか霊的な空間らしく、見つけられないのは当然だそうだ)に迷い込んだかららしい。
はぁ、とため息を吐きながら、帰路につく。一人暮らしだからまだいいけど、暫く眠れない日が続きそうだ。



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