good boy

□16
1ページ/1ページ



「…あ」

思わず声を上げたのは、捲ったキッチンマットの下、必死になって探した代物を発見したからだ。
こんな所にあったのか、と拾い上げる。
鈍く光る銀色のそれは、506号室の鍵。
ちなみに何故キッチンマットを捲ったかと言えば、水を溢してしまったというシンプルな理由だ。

あの後、味噌汁を飲み終わり尚も居座ろうとする冨岡先生を休日出勤なんでと半ば無理矢理追い出し、間髪入れずすぐに鳴らされたチャイムに続いたのは
「鍵がない」
その一言だった。

右手に握り締めたまま冨岡先生に組み敷かれたのは覚えていたが、それからの記憶は一切ない。
反射的に手を離し何処かに飛んでいってしまったのか、あるいは滑っていってしまったのかはわからないが家の中にあるのは確かだとダイニング中を探し回っても、終ぞ見つける事は叶わなかった。
最終的に鍵開けの専門業者を呼び、事なきは得たものの、鍵自体は今の今まで忽然と姿を消したままだった。
あの時もキッチンマットの下は確認した筈だが焦りも手伝って見落としていたのかも知れない。

もうすぐ21時を回る頃。
平日だが流石にまだ起きているだろうと寝間着にしているジャージの上から軽く上着を羽織り、隣の部屋へ向かった。

good boy

ピンポーン、ピンポーン。
響くチャイムに、当たり前だけどうちと全く同じなんだなと考える。
中からドタドタと騒がしく音がしたかと思えばすぐに開けられた扉の勢いに少し驚いた。
私以上に吃驚しているのは開けた主。
「…どうしたんですか、そんなに慌てて…」
「名前の方から訪ねてくるとは、思わなかった…」
「用があれば訪ねますよ。これ、見つかったのでお返しします」
右手で鍵を差し出せば、一瞬その表情が曇った気がするが、その違和感も
「返さなくていい。持っていてくれ」
斜め上の回答に思考を止めざるを得なかった。
「…いえ、いいです別に。要らないです」
「持っていて欲しい」
「嫌です必要ないです。冨岡先生無防備過ぎません?見ず知らずの人間に家の鍵渡そうとするとか考えられないんですけど」
「見ず知らずじゃない。未来の結婚相手だ」
「…凄い久々にぶっ飛んだ発言聞きました。お元気そうで何よりです」
最近は慣れもあるのかちょっとやそっとの事じゃ驚かなくなっていたが今のは結構な衝撃だ。
「どうするんですか実は私が空き巣や結婚詐欺師とかだったら。有り金全部持っていかれますよ?後悔しても後の祭りですからね」
「名前になら全部持っていかれても構わない。俺も貰ってくれるんだろう?」
「…そういえば冨岡先生が無駄にポジティブで鋼のメンタルなの忘れてました」
今のは完全に言葉の選択ミスだ。
「とにかくこれはお返しします」
もう一度差し出した右手に、暫し沈黙が流れたが
「…わかった…」
大人しく左手でそれを受け取ったのに安堵して右手を下ろす。
「……では、失れ「名前に触れたい」」
余りにも直球どストレートな台詞に眉を寄せた。
「この間の事は…心から反省している。許して貰えるまで我慢しようと思っていたが…正直限界に近い」
左手、その指先を掬われて反射的に引っ込めようとしたものの、余りにも悲壮な表情に躊躇ってしまう。
「…少しで良いから、名前で満たされたい…」
突っ撥ねる事は、簡単に出来る。
私が此処で駄目と言えば、きっとこの人は反論せず諦めるだろう。
しかし途端にあの時走った痛みを鮮明に思い出したのは、もう同じ轍を踏んではいけないという警報だった。
一週間経ってもくっきりと残る痣のせいで、またストール生活を余儀なくされている。
こんな目に遭うのなら、それこそ小出しにさせた方がまだマシなんじゃないか。
「……。本当に少しだけですよ」
言うや否や、引かれた左手で玄関へと上がる。バタンッと閉まるドアを背中で聞いた。
この間みたいにすぐに襲ってくるかと思えば、ゆっくり扉へ追いやられる。
「噛まないでくださいね。それやったら本当に二度と近付けさせませんから」
「…わかっている」
髪へと埋める顔に、本当好きだなとそれ、と考えながら、ふと冨岡先生の匂いに包まれている現実に気付いて視線を下へ落とした。
どう、すればいいのだろう。
いつも一方的にやられてばかりだったせいで抵抗と逃亡する事を常に考えてきた。
今此処で自分がどうすれば良いのかわからない。
「…名前…好きだ。愛してる」
耳元を這う口唇にビクッと肩が揺れてしまった。
そうだ、無だ。無になろうそうしよう。
私は撫でられ地蔵だ。冨岡先生にはきっとそう見えている。何か凄い有難い何かに。
首筋を吟味するように這う舌に目を瞑る。
「…っ…ん」
しまった。息を吐いたと同時に声が洩れてしまった。
「…終わりです。離してください」
「まだ足りない」
「少しだけって言いましたよね?」
「………」
名残惜しそうに上げた冨岡先生の顔がいつの間にか目の前に移動していて息を止める。
それが近付いてくる前に思い切り右手で顎を押し返していた。
グキッと変な音がした気がするが聞かなかった事にする。
「今噛みつこうとしましたね」
「…噛みつこうとはしていない。キスしようとしただけだ」
「似たようなものです。誰がいつよしって言いました?待てですよ待て」
全くこの犬は油断も隙もない。
「わかったからこの手を退けてくれ…」
それでも私の手を振り払わないのは従順な証なのか。
力を緩めたのが先か否か掴まれたと認識した時にはその腕の中に居た。
厚い胸板に押し付けるしかない顔を僅かに上げようとした所で抑えつけられる冨岡先生の鼻。
「…本当、冨岡先生ってそれ好きですね」
いつも心の中で考えていた事を口に出せば
「名前の匂いは俺の癒しだ」
また犬みたいな事を言う人だなと思った。
まぁ匂いが癒し、というのはわからなくもない。
私もこの匂いは…
瞬間的に眉を寄せた。

今、何を…

「離してください。終わりです。帰ります」
「……。わかった」
大人しく身を引いたその顔を見る事なく、部屋を後にする。
ほんの僅かでも施錠するくせがついた玄関を開けようと上着のポケットへ手を伸ばし鍵を取り出したと同時に、覚えのない感触に視線を向けた。
先程返した筈の506号室の鍵。
いつかはわからないがどさくさに紛れ仕込んだのだろう。
もう一度突き返しに行く気力もなく、そのまま家の中に入った。
一瞬捨ててしまおうかと迷ったそれも、いつでも返せるようにと常に持ち歩いている筆箱へ入れる。

「は────…」

重い溜め息を吐いて、自分を落ち着かせる。
ほんの一瞬でも有り得ない事を考えてしまった。
冨岡先生の匂いが心地良い、なんて。
深呼吸に近い溜め息を吐いて、上着を脱いだ途端、また鼻を掠める残り香に消臭スプレーをおみまいしておいた。

* * *

「失礼しまーす」

開け放たれた職員室の前、軽く挨拶した女子生徒二人は
「苗字せんせー!」
手を振りながら真っ直ぐ私の席に向かってきた。
「職員室では静かにね。どうしたんですか?」
軽く注意してからすぐに用件を聞けば、ごめんんなさーいと軽く謝ってから右手を差し出す。
「先生これ持ってます?」
その問いに視線を落としてから眉が勝手に動いた。
「…これって、カナ子ちゃんの」
「そうですー!昨日買ったんですけど、目当てなの出なくて、苗字先生カナ子好きだって言ってたからあげようって二人で話してて」
「おいくら?払います」
「良いですよー!先生この間私達にキョウゴとネズ美くれたじゃないですかー。お礼です!」
突き出されたそれを素直に受け取る。
「ありがとう。このシリーズのラバスト、可愛くて欲しかったの」
「良かったー」
心底嬉しそうに微笑う二人につられて、少し笑った。

「…何だそれは」

彼女達の背後、そして向かい合っていた私の目の前にぬっと現れた冨岡先生。
あいさつ運動で校門に居た筈だがいつの間にか戻ってきたらしい。
二人がわかりやすく動きを止めると、みるみる内に曇っていく表情。
「何ってカナ子ちゃんですよ。知らないんですか?今子供達の中ですごい流行ってるアプリゲームのキャラクターです」
私の言葉と共に二人が冨岡先生と距離を取るようにこちらへ逃げてくる。
最近では大人しくなった方だが、一部の生徒には未だに恐れられているらしい。
「…先生。やばくないですか?私達怒られませんか?」
こそっと耳打ちしてきて一瞬何故そんな事を訊くのか考えた。
あぁ、そうか。この人生活指導も受け持っていたんだったと気付いたのは、持っていたカナ子ちゃんを浚っていった右手と同時。
これまでの冨岡先生なら問答無用で没収&体罰だろう。
流石に体罰まではもうしないだろうが、没収は食らいそうだ。
しかしそれも
「…胡蝶に似てるな」
ボソッと出した呟きに思わず小さく笑ってしまった。
「似てますよね。名前もそうですけど、このほんわかした笑顔とか。だから好きなんです」
一瞬、眉を寄せた冨岡先生の手がゴミ箱に動こうとするのを察知して、それを咄嗟に救出する。
明らかに不満な目を向けられるが気が付かないふりを徹底する事にした。
「あ、そういえば!」
叱られないであろうと空気で察したのか、今まで黙っていた声を上げる。
「冨岡先生に似てるキャラもいるよね?」
そう言って友達へ笑顔を向ければその子は暫し考えた後、あぁ!と納得したように鞄を漁った。
「これね!?」
そうして小さな袋の中から取り出したのは先程のカナ子ちゃんと同じシリーズのラバーストラップ。
「似てません!?」
私に渡してこられても、というのは心の中だけで思いつつそれを受け取って冨岡先生と比べる。
思わず噴き出しそうになってしまいそうなくらい、瓜二つだった。
何が似てるってその表情が。
「確かに似て、ます」
笑いを堪えながら答えた私の右手からまたそれをかっ浚っていく。
自分とそっくりなキャラクターをじっと見つめる光景がシュールで、私だけではなく彼女達も笑いを堪えているのが伝わってきた。

「自分では良くわからない」

そう一言呟いた声色は酷く穏やかなもので、今まで距離を置いていた二人が冨岡先生に群がる。

「えー!?似てますよ!ほらこの目つきとか!」
「そうですよ!このムスッとした表情とかそっくりです!」
「…俺はここまでムスッとはしていない」
「してますって!」
「してるしてる!鏡見ます?」
「良い」
「これユウトってキャラなんですよ」
「…そうか」
「冨岡先生にあげます!」
「……」

二人に揉まれ明らかに困惑はしているが、黙って受け取る姿に安堵して、校閲の書類を手に取った。



ちょっと可愛いななんて


(良かったですね)
(…そんなに俺に似てるか?)
(そりゃもうそっくりですよ)

次の章へ
前の章へ

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ