good boy

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デスクの上、溜めたままにしていた業者からの請求書に目を通す。
掃除用具代は確かPTAの予算から出して貰っていたので後日清算をお願いするとして、この間の学用品の処理がまだ終わってなかった気がする。
そろそろ新入生の名札も発注しないといけないし住所を地図で確認しないと来年度の新入学に間に合わない。

「……はぁ」
吐くつもりのなかった溜め息が出てしまって、昨日よりだいぶマシになった頭をまた押さえてしまった。
「…まだ調子が悪いのか?」
突然飛んできた声に考えていた事を忘れてしまった。


good boy


弾かれたように顔を上げた私の右隣、椅子に腰かけるジャージ姿。
「…おは、ようございます…」
明らかに動揺してしまった声色にその眉が寄った。
「何故そんなに驚く?」
「…いえ、久しぶりに見た気がするな、と思いまして」
「昨日も会っただろう」
「学校ではっていう意味です。良かったですね、誤解が解けて」
「そういう割に余り嬉しそうじゃないな。表情が硬い」
「正直に言うと仕事溜め過ぎちゃいまして、これからの反動に恐怖を覚えています」
「そこまで俺の為に…」
「感動してる所悪いんですけど今回の報告書は早めに書いてくださいね。私も目を通さないといけないんで」
「何を書けば良い?」
「冨岡先生が創…遇した内容です」
「エロ本の事か」
「…そこまでダイレクトな名称は書かなくて良いんで、かいつまんで概要がわかるようにしておいてください」
「エロ本じゃないなら何と書けば良い?」
「…そうですね…」
いざ訊かれてみると何て表現をしたら良いのか迷う。

「成人向け雑誌、で良いんじゃねぇの?」

背後から声がしたかと思えば頭の上に乗る書類の束に振り返った。
名前を呼ぶ前に
「活動報告書、不備はなかった。一応確認してくれや」
頭に乗ったままの書類を手に取る。
「…わかりました。ありがとうございます。で、今何て言いました?」
「成人向け雑誌で良いんじゃねぇの?っつったけど」
「成程、良いですね。ありがとうございます不死川先生。聞きました?冨岡先せ…」
やばい、無言で威嚇してる。
思わず目を逸らすも不死川先生は小さく笑うだけ。
「冨岡ァ、良かったな。謹慎解けて。苗字に礼言ったか?こいつめちゃくちゃお前のために動いてたんだぞ?」
「不死川先生、余計な事言わなくて良いです。この人調子乗るんで」
「…そうか…。名前が…俺のために…」
「ほら、自分の世界に入っちゃったじゃないですか。こうなると人の話聞かない上に暴走したりしだすんでやめてください」
「悪ィ悪ィ。しかし良くわかってんな。流石飼い主」
「めちゃくちゃ嫌味にしか聞こえないんですけど。飼った覚えはないです」
最近不死川先生まで私達の事をからかって楽しんでる気がする。
「で?あとは何か手伝う事あるか?」
突然の質問に考えるのが遅れた。
「…今の所、すぐには浮かばないんで、思い出したらお願いしても良いですか?」
仕事自体は余る程にある。
しかし今思い当たるのは金銭が絡むものと生徒の個人情報に関わるものしかなく、これは教務主任の名が付いていないと処理してはいけない案件だ。
それに関しては細かく説明しても余り意味がないと簡潔に答えれば
「りょーかい」
すぐに納得して自分のデスクへ戻っていく不死川先生。
先程渡された活動報告書に一応目を通すも、軽く見ただけでそれが完璧だというのがわかる。
常に置きっぱなしのプラ籠には、宇髄先生が校閲してくれた書類と、胡蝶先生が作成してくれたプリント、そして伊黒先生が製本してくれた冊子が重なっている。
それも纏めて目を通せばどれもこれも私のチェックなど要らないくらいの仕上がりだ。
昨日の時点ではまだ冨岡先生の謹慎が解けるかどうか確定していなかったので、プリントと共に張り付けられた紫の蝶の付箋には『苗字先生、頑張ってね!』の一言。
可愛らしい文字に自然と口の端が上がり丁寧に剥がしてから、何処に保管しておこうと考える。
考えてから仕事用の手帳を取り出すと開いた先、すぐに見られるようにそれを貼った。
同時に感じる右からの圧にゆっくり視線を向ける。
「…何ですか?」
「嬉しそうだな。胡蝶からか?」
いつの間にか自分の世界から帰還していたらしい。
「そうです」
「見せてみろ」
「嫌です。そのまま破棄されそうなんで。そういえば冨岡先生、カナ子ちゃんのファイル忘れてませんか?」
「……。あとで部屋に返しに行く」
「いえ大丈夫です。来なくて良いです。時間がある時で構いませんのでドアポストに入れておいてください」
「手渡しを拒否するのなら返さない」
「…またそうやってすぐ交渉しようとする…」
呆れる私を余所に日誌を開く横顔に、とりあえずの会話を終わらせる事にした。
仕事が溜まっているのは私だけじゃなく、冨岡先生も同じだからだ。
そういえば学園メールも確認していなかったとマウスを動かしてからズラリと並ぶ未読に目を細める。
昨日確認するのを忘れていた。
1日放置するとこんな事になるのか…。
その殆どは業者側の勧誘だったりするものだが、ちらほらと保護者からのものが混ざっている事もあるので念のため全てに目を通さなきゃならない。
古いメールから要らないものを削除しつつ考える。

冨岡先生の謹慎は、何故解かれたのだろう、と。

結果的にあの時点で冨岡先生に正直に話さなかったのは正解ではあったけれど、それでもあの人がこのまま引き下がるとは思えない。
何かしらを企んでいるのは間違いないと断言出来る。
宣言と違う事をしておいて、疑問を抱え答えを欲した私がまた来るように仕向けている?
その可能性は大いにある上に、そこには罠も存在する筈。

そこで思考が止まったのは、忙しなく動き出す右横の影が視界に入ったからだ。
大人しく日誌を書いていた筈の手がペン立てや引き出しを漁っている。
「どうしたんですか?」
「…修正ペンがない」
「修正テープで良ければ替えがありますけど」
「貸してくれ」
「差し上げますよ。学校の備品として纏めて購入したものなんで」
その言葉に一番上の引き出しを開けた瞬間、入ってきた光景に一瞬動きを止めてしまった。
そうだ…我妻くんから貰った写真をしまいっぱなしにしていた、と思うと同時に冨岡先生の右手がそれをさらっていってしまう。
「名前も大事に持っていたのか」
「我妻くんの手前断れなかった上に忘れてただけです。返してください」
「どうせなら写真立てに入れて此処に飾れば良いと思うんだが、どうだ?」
「何名案閃いた、みたいな顔してるんですか。絶対飾りませんよ」
未開封の修正テープを取り出すとそれを差し出す。
「どうぞ」
「あぁ」
「…で、返してくださいそれ。何自分の引き出しにしまおうとしてるんですか」
「名前が飾らないのなら俺が飾ろうかと…」
「駄目です。やめてください」
こんな写真飾っていた日には他の教師に勘違いされる挙句、言い逃れも出来なくなる。
冨岡先生が敢えてそれを狙っているのかわからないが。
渋々返してくるそれを受け取って早々、鞄に入れた。
そうして大人しく修正テープを開ける横顔からパソコンへ顔を戻す。

"苗字教務主任 御中"

目に入れた件名に眉を寄せた。
左クリックをすれば
"お世話になっています。先日の案件についてお伝えしたい事がございます。"
見た限り業務的なメールかと思うも、その後に続く連絡先と称された英数字に眉を寄せた。
ローマ字で記されたその名前と誕生日に覚えていた訳じゃない記憶が蘇ってくる。
はっきりと名乗っていなくとも、差出人が誰かなんて嫌でもわかった。
そのIDをメモに取ってからすぐにそれを削除する。
私がこうして破棄するまでを読んで送ってきたのだろうと思うと腹立たしいが、このまま残しておくという選択肢はない。
万が一他の教師…特に冨岡先生に見られた日には収拾がつかなくなるのがわかっている。
「苗字先生」
後ろから聞こえた低い声に一瞬動きを止めたもののすぐに振り返った。
見上げた先には悲鳴嶼先生。
「はい。どうしました?」
「昨日、中等部の保護者から窺った内容を音声として記録しておいた。特に今すぐ我々教師が動くべき案件ではないが、時間がある時で構わないので聞いておいて欲しい。音声ならば他の仕事を片付けながらでも確認出来ると思う」
「…わざわざ録音しておいてくれたんですか?」
「こんな事しか力になれず申し訳ない」
「いえ、十分過ぎる程です。ありがとうございます。本当に助かります」
頭を下げた私に悲鳴嶼先生は自分のデスクへ戻っていく。
今回ばかりは助けられている。
素直にそう認めざるを得ない。
問題が根本的に解決した訳ではないけれど、冨岡先生の謹慎は解けた。
とりあえずはそれで良かったと思おう。
これからの身の振り方を今考えても仕方がない。
ひとまず体調を戻す事を優先にしよう。
あちらがどう出てくるか、まだ判断が難しい中、此処で考えても煮詰まるだけだ。
ただひとつ言えるのは、あのメールを無視するのだけは出来ないという事。
出来るだけ早く空き時間を見つけて連絡すると決め、目の前の請求書へ再度目を通した。

* * *

ピィ────ッ!

窓の外から聞こえる笛の音に、久しぶりだな、なんて思いつつも、LINEを開く。
ID検索で出てきた名前を追加してから
"メールを確認しました。ご用件は?"
短く打ってから小さく息を吐いた。
あちらも就業中のため、すぐには返ってこない事もわかっている。
年末大掃除の清掃分担表を作成していた所で後ろから
「…げ」
短いながらもそれが余り良い意味ではないのが窺い知れる声が聞こえた。
振り返った先の視線はわからないが恐らく自分のデスクではなく窓の方を向いている。
釣られて顔を動かした先、パタパタと音を立て降ってきた雨に
「…洗濯物干しっぱなしにしてきちまった…」
絶望に近い一言が落ちた。
「クッソ、また洗い直しかよ…」
ガリッと頭を掻くその気持ちはとても良くわかるのでそっとしておく事にして、外からは突然の雨に降られた生徒達の悲鳴が聞こえる。
それは本気というよりは突然のアクシデントに半ばはしゃいでるもので、席を立つと窓際へ向かった。
「全員校舎に退避!!」
また聞こえる笛の音に、自分も早く入れば良いのに、と思ったけれど都合良く側に拡声器がある訳ではなく、その様子を眺めるしかない。
慌てたように走る生徒が派手に転んだのを助けている姿は微笑ましくて自然と頬が緩んだのを隠さなかったのはマスクをしているという油断からだ。

誰も居なくなり雨に打たれ続ける校庭を眺める。
どんよりとした空はきっと暫くは晴れないのだろう。

「まぁ、冨岡先生」
「大丈夫か?」

胡蝶先生と不死川先生の言葉に振り返ればいつの間にか戻ってきた冨岡先生は寒さ故かカタカタと小さく肩を震わせている。
こんな寒空の中で雨に打たれればいくら冨岡先生でもそうなるだろうに。
確か引き出しの3段目にフェイスタオルがあった筈だと歩を進めようとした所で
「大変だ!そのままでは風邪を引いてしまう!」
煉獄先生のバスタオルが冨岡先生の頭から身体をすっぽり包んだ。
「何でバスタオル持ってんだ?」
「剣道や授業で汗を掻くため常備している!」
不死川先生の疑問に答える煉獄先生らしさについつい小さく笑ってしまう。

「変わったのは俺だけじゃない」

いつかの冨岡先生の言葉を思い出したのは、今更ながらそれを自覚したから。
あの人の前で言った通り、楽しいんだ。
楽しいと、自然と思えてしまう。

だから、だからこそ…

「…名前」

いつの間にかヌッと現れたバスタオルを被ったままの冨岡先生に心臓が跳ねる。
「なん、ですか?」
「何を考えている?」
「…正直に言って良いですか?」
「何だ」
「その恰好でいきなり目の前に立たれたので考えてた事全部吹き飛びました」
「そんなに変か?」
「変ではないですよ。お化けみたいで可愛らしいです」
「………」
動きを止めた冨岡先生がわかりやすいな、と目を伏せた。
まさか私が、そして職員室という場所でそんな事を言うとは思っていなかった、そう顔に出てる。
ここ数日、体調不良のせいで劣勢を強いられていた私のささやかな反攻だ。
そのまま固まる冨岡先生に頬を緩めながらその横を通り過ぎた。

* * *

しん、と静まり返った職員室、窓の外はすっかり闇に包まれていて、風によって運ばれる雨が時折パタパタと窓を叩く音が聞こえる。
少し調子が良くなったとはいえ、いきなり無理をし過ぎたかも知れないと20時を回った所で小さく息を吐いた。
それでも月末の大掃除までには連絡事項を記しておかねばならないと溜め息を吐いて固まりつつある首を運動がてら動かす。
再びキーボードを打つ手を止めたのは
「帰らないのか?」
右から飛んできた言葉。
「冨岡先生こそ帰らないんですか?」
「まだ仕事が残っている」
「そうですか。私も同じ理由なのでお気遣いなく。もう少ししたら帰ります」
私達以外誰も居なくなった職員室でキーボードを叩く音とペンを走らせる音が響く。
どう頑張っても今日中に終わりそうがないそれにキリの良い所までで終わらせようと入力する手を速めた。
ガタッと音を立て椅子を引き日誌を教頭の机に提出する背中を一瞥して、またパソコンへ戻す。
「…終わった」
短い報告に手を止めた。
「お疲れ様です。凄いですね。3日分をこんな短時間で終わらせるなんて」
賞賛に近い言葉を掛ければまた椅子に戻る冨岡先生に眉を寄せるしかない。
私の表情に答えるように
「…名前が終わるまで待ってる。一緒に、帰りたい」
ぎこちなく詰まる言葉に寄せていた眉間を押さえてしまった。


やっぱり無下に出来ない


(…もう少しかかりますけど)
(構わない。何時間でも待つ)
(…もはや名実ともに忠犬ですね…)

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