09/05の日記
01:59
目線
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具体的な想像。
有り得る想像。
「私達は〜」と言う括りが織り成す王者意識は何によってか。
人が世界の支配者ならば雨風を鎮めるどころか、
心の波もなだらかにできようもの。
蟻は人差し指の悪戯にさして神のような高貴さを感じずに
ただの土砂崩れと諦めるだろう。
貝はその実を食べられるなどと、
こじ開けられ噛み砕かれている間でさえ
客観視できるだろうか?
支配を強く意識する者だけが
「支配している」と勝手に把握する心理。
その情緒に留まらなければならないのは何故か?
私は餌やりの立場にそびえようとする者が誰であろうと
変わらず魚は泳ぎ回るだろうと思う。
魚眼には人の顔が見えているか。言葉の響きが聞こえているか。
もし全ての魚がイルカのように答える行為を持つならば、
もはや誰も支配者では無い。
餌が命だと怯える者がただひとりで居る事を
どこかで忘れようと迷っているだけの気がする。
対の無い世界の一歩手前でもし、対を求めるなら、
対となって答えてくれた者が私やあなた自身より
神の自由さを持っていやしないだろうか?
答えてくれたと言う事はつまり、
あなたの願い自身となって
あなたを飲み込んだに等しいのだから。
向こうの自我に拮抗して押し込んだ意地以外では
全て器として負けている。
対の自我に勝つことはその対を突き破るほど狭い。
こう感じる。
相手の傷口はあなたや私に対する寛容だと。
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