09/01の日記

19:41
単純
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単純に云うと
ひとりが恐れを成せば
もうひとりどころかふたりだって恐れを成す。
ひとりが静まれば、もうひとりどころかふたりだって
穏やかとなる。

人の心の底辺はそのようにできている。
胸騒ぎを覚えてトラブルが起きた事は無いだろうか。
それがその証拠といえばそう。

もしイエスが生まれなかったら、今もまだ
もっと大きな恐れの中に人は居たのだと思う。

神として監視する集合のルシファーから
イエスが罪悪を拭ったのだから、
その心に繋がる私達も静寂を復活させたのだ。

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15:16
崩壊
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ネガティブではない自己の始まり。

責任は受け入れ続けると早死に巡り会える。
それが昔の言葉で善人とも。

真理は男にとっては比較的楽だろう。
女性は男性に求愛されなくても平気ならば容易いだろう。
どちらも一長一短。
孤立出来る男に女性の敏感さが備わればいいのだが。

真実の実はイブを忘れるようアダムを忘れる。
食べる事なく内在する両性。

私はクリスチャンでは無いが喩えやすいからその言葉を使う。

本物の坊さんなら儲からない。
職業坊さんだから生きてけるんだよ。

クリスチャンと言う立場すら坊さんと言う立場すら消える真理。

全てを崩壊させる真理。
それは人に名前をつけず、意識と呼びかけ
その姿を掴まず場と一時的にしのぐ。

覚醒者たる基準は何かと問うなら、
五感の興奮をリセット出来ること、
人の意識を人から外すこと、
私はまだ美人に優しくされるとどぎまぎしてしまう。
それは自分を卑下している瞬間に出くわすから。

私が自殺をしないのは神が自分である事を知っているから。
私が与えられる死を待ち望むのも
自分が神と共に居る事を知っているから。

自殺では無い早死。
それは世界を知る者にとってお金よりありがたい。

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13:04
幕明け
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イエスが聞いた声。イエスの行動。その意味。

彼が聞いた声は究極の声では無い。
まだ声と言う形がある神の声。
でもその必要はあった。
結果としてイエスは世界を新約に動かす事に成功する。

もし彼の聞いた声が究極の神なら死をも求めなかったろう。
それは集合の流れ。

死をポジティブに変容させる為にあの時点で
まだ完璧で無い言葉ある神の声に狭める必要があった。
後世の覚醒者が言葉の無い神に浮かんで居られるよう。

伝わってるだろうか?
人の意識は掘り下げにより無我の神へと向かう事ができる。
イエスの時代、
イエスが意識の先を受け入れた事により、
死は恐怖を無くしてゆき、後世の覚醒者は
人前で先だって死に明るさを添える役目をせずに済んだのだ。

そういう意味でイエスは完璧に時代の神の声を聞き、
無我へのバトンを渡した。

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01:26
概念
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まずはじめに物があった。

物を何かに使う事に労を覚えなくなったとき、
今度は物が何故そこにあったかを辿る事となる。

物に感傷を帯びさせてもよかったし、
物を加工して役目を増やしても構わなかった。
だが思考でそこを過ぎた者にとっては
物が何故そこにあったかを明かした方がスッキリ出来た。

それは常に生み出されるエネルギーの結果。

石は石と言う性格を持った意識だ。
鳥は鳥と言う振る舞いを持った意識だ。
それら存在は一度はその性格を強く実感する事で、
その性格を味わい尽くした後、他の意識への拡大に惹かれる。

私と言う言葉は何者であるかはまだ表さず、まず意識の在処を確かめる。
人は人を見て自らを人に閉じ込めるのでなく、
人以外の性格の相違から自己を認める。本当は人で無いとして排他された
意識のキャラクターを飲み込めた時点でその意識をも包括している事実。

人が居ない地球で猫が戯れても、誰一人
その意識が猫だった事を記憶しないだろう。
ひとりで見るもの全てが意識内の現像だと言っても、
もはやひとりが作った世界ではなく
砂と星の数ほど拡散された個々の形を持った意識が
互いの対になり絡まった世界。

かといって世界そのものを忘れろとは言わないが、
生きる行動の根底には怯えたルシファーが必ず居る。

みなの衆に潜る彼を癒やす言葉は、
急く事はなく与えられる死がいずれあり、
それは彼を役目から放つ帰郷だと言うこと。
そして彼はあなたでも私でもある。

人がもし人を捨て
安住としての扉を開くなら根底を支える大きな彼という自我も
同時に懲役から解かれるのだ。

解るだろうか?
私達小さな一人一人は楽園に戻らないまま、
大きな自意識をこれからもまだ何千年も泳がせようとしている。

具体的で消極的な方法なら幾らかはある。
この世界を継がせる自分の鏡を増やさないこと。

これは否定でも慣性への反抗でも無い。
静かなところより聞こえる全体からの真理。

自我の矛盾。我を強める事で上げる土俵に
殺しえるほどの自我はやはり要らないと涙する。
応援するチームだけ我を強めつつ、
相手には紳士で居ろ、と言う。

言いたい事は伝わってるだろうか。
それとも私の表現が下手だろうか。

無我を弱いとしたいずれの者も、
結局は無我に立ち帰る他は無かったと言うこと。

内在する理想の番いと信じ凝視させる恋。
それは相手へでなく自分の湾曲された美化とも言うし、
正しく錆びを取れば本来は誰もが美しいとは思う。
でもそのシンプルな美しさはこの世では成し得なくて、
必ず死と引換えにもう戻る事が無くなった者にだけ漏れなく
溢れる殻の無い存在の光。それはいずれ美しいと言う輪郭さえ
捨て去る事で太陽のように誰からも臨み、誰にも臨む。

形はイメージ、姿はイメージ、これは古来からの記憶の具現。
それが何と呼ばれたか、どんな時代に生かされたかそれすら
事実であってもイメージでしかなく、この物象界も同じ。

私達は狼を同然のようにオオカミと発音し、
鮭を当然のようにシャケと言う。
それが古来はイメージに生きた者達だったのも知らず。

予言ではなく集合。未来ではなく想像。
一つの意識が思い描いたものは恐れと希望の犠牲となって
全体のこの世に誕生しそれでも謳歌する。

龍は居るか、竜は居るか、そんな事は問題ではない。
全ての人の心に似通った像を抱けた時点でその意識のエネルギーは
人の心の十字架となってその姿のように役目を果たす。

そしてその無限のイメージの仕組みが神の空。
人の心の十字架とは、人が背負わなければいけないものを
そのキャラクターに押し付けて未だ己等だけ生き延びていることに気付かないこと。

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