10/05の日記

02:42
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そこのあなた、そちらのあなた
生える草木、日向ぼっこの子猫。

これらはわたしであり、また同時にそれを診るなら
あなたでもある。

ではかつての私という個はどこか。
それは大局的には存在しない。

この花を摘んで持ち去りたい。
この鼠を追い払いたい。その瞬間、一時的にあなたやわたしは
あなたやわたし自身だけが持ち得る感情となり、
それが個の範疇に入り込む。

夏の日の照射。中和させようと
ひんやりとした水を求める想いは、きっと大勢だろう。
だがしかしそれであってもいずれも個だ。

また意地悪なはてなを出そう。
数名の誰かが、あなたを横目で見ながら何かを懐に隠した。
あなたはそれを見なければ、隠したものが何であるかを気にする
瞬間も生まれない。

その何かを隠した、と認識する映像を見てしまうあなたと、
たまたま見逃していたあなた、これはどちらでも有り得ること。

二股に分かれた感情の行く末を見たとき、あなたは
今のあなたが本当にあなた自身であることに確信が持てるだろうか。

隠したものが何であるか、また自分に関係があるか、などと
拘って数十分、いや数時間、または数日に及び悶々とするあなたと
それを見ないが為、次の瞬間別の欲求に従ってあなたの予定通り
遂行されるあなた自身だと感じている時間、
どちらもあなた自身である可能性はあるのだ。

そのどちらもあなた自身であった「あなたの気になる部分」は、
もしかしたら、あなたに人を怒鳴らせるかもしれない、または
レストランで美味しいランチにありつかせるかもしれない。

そうなるともはや、あなたと言う個人は存在しない。
あなたと言う個が選択してきた感情の流れがあっただけで。

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またこれも自分の中では駄作扱いのものですが、日記替わりなので。
自分の目論見としてはいついつに何がある、から
その代償として何が欲しい、とかでもなくそもそもそんなもの信じてもなく、
ただ自分の心と思わされていたものを取り出し眺めて見れば、
何の事は無いと思えると言う事をまだボールのように眺めてない人に、と思って。
思い上がりでもなくただその方が楽だから。

確信犯的にそのボールを頑なに持ち続けて、
苦しみながら変化したい、と言う人にとっては自分の理屈は不要でしょうけど。

自分の思考はテープの巻き戻しのようなものです。
例えばある女性に恋をした、付き合った、トラぶったといった一連の流れを見たときに、
そのトラブルは自分が注いできた感情であり、努力と思い込んでいたものであり、
それは裏を返せば自分自身である、とも言える。

そこで、彼女に対して投げていた自分と言う現象に過ぎない、ところまで遡り、
結局は自分を可愛がっていたに過ぎないところまでも遡ります。

自分と信じていた感情が行動を起こすまでの過程。
それは一部分であり、ちょうど紙を丸めて覗き込んでいるかのよう。

覚醒を称している人の中には、(日本にも多いと思うのですが、)
途中で無の境地に入ると、いまだに自分が存在し続けている事の不可解さから
自殺してしまう人が居ますが、自分はその無と称して「空」から自由に遊ぶことを
確信犯的に見つけてしまったので、苦しみはもう見つからないと思います。
誰かを殺す事も自分を殺す事もいずれも等しく
「世界そのもの」を殺すことになりますし。

追う側と受け入れる側、そのどちらにも強烈には属さない
見合い等で結婚した人を私は尊敬に近い感情を覚えます。
それは悟りと言う道を意識的に辿らなくとも、利己愛でなく利他愛、
他のいずれの人をも愛せる、と言う実践的な行動をとり続けて居る人達だから。
そこに自分がここまでしたのに、と言う利己愛の責任転嫁は無いように感じます。

結婚がどういうものか、と言われると私のような未熟者にはとても判りませんが、
恋愛結婚、見合い結婚と言う二つの選択を見た時に利他愛に近いのは見合いだとは思います。
また、勘のいい人であれば個に異常に執着したとしても、その個以外の全体へ気づく反動も
個の行動によって促される可能性を多分に秘めているので一切の行動に無駄は無いとも思います。

利己愛も百回繰り返せば、利他愛に転じる、とでも言いましょうか。

今のところ、そのどちらも選択しないつもりですが、
もし私に個としてでなく全体として促されたときは祝福を受け入れたいと思います。
自我を発生させる魂を分裂させる、と言う行動を取ってしまうかもしれませんが、
この発言を含め、それが結果として自分が個として認識出来る部分は
やはり全体の一部分でしか無い訳で、何をやっていけない事などと
自分の価値観が決めれる範疇では無いとも感じます。
そもそも「空」であるなら「結果」さえも個の認識でしか無い訳で。

もしかしたら、個の欲求さえも全体の流れなのかもしれませんし、
その見極めは私にはまだ難しいです。

ただ、ケーキを食べた後は、
ケーキがあった事も忘れるくらいの気軽さは持ちたいです。

【追記】
行動の諸々の裏には必ず僅かでも選択が生じている。
選択を意識させない行動としては、ロボットのようにインプットされた記憶がある。
たまに覚醒を目指す人の道中で、選択をしないことを意識するあまり
何も出来なくなる人がいますが、私はそのポイントはすぐにスルー出来ました。

目覚まし時計によって毎朝起こされ、選択の感情も浮かばないまま通勤する。
そもそも生きる、と言う継続運動も意図的な死に向かうより自然であり無意識的。

肉体を生の象徴として見る事なく、
霊(抵抗がある人には心でも)を生として見るなら、
生きるも死ぬも傾かないはず。
そこで何に対しても手が出ない人は、
逆にその反対を意識し過ぎている。

甘菓子一個をどれにするかで、「これは選択だ」と
自らを抑えるのも固執なら、その逆も然りかと。

不食を叫ぶ者も大食に溺れるのも、そしてそれを溺れると表現してしまう事すら振れでしかない。
自然にそうなるならそうすればいいし、そうしたいならそうすればいい。
何もかも自由。ただ選択後の固執を転嫁するのはとばっちりを受けた人が不憫なのは確かかと。
選択にも自分の感情が伴ってしまうものであれば捨てた方が楽で、
シュークリーム一個足りない事で自分の感情が揺さぶられるなら
その時ばかりはシュークリームを心から消した方がいいのは確実。
でも日頃、シュークリームが食べたいなら普通に食べればいい。


-《再追記》-8:33 肉食についての個人的見解。
食べ物の話になったので、付随してまた浮かんできました。
菜食に傾いた事もありますし、不食を行ってみて数日空腹を感じずに
続行可能だったこともありました。要は何に慣らされてきたかの問題だと。
たぶん、誰もが実際にしていないだけでしようと思えばいつでも出来る事だと思います。
一食で終わらせる習慣の人も居れば、水で過ごす人も居ますし。

結論としてはYESでもNOでも無い。さきほど適当な一例が浮かびました。

もし目の前に陳列された馬肉のパッケージがひとつ、
それと脇には本物の馬一頭と出刃包丁があったとして、

あなたはパッケージを手に取る事と、馬を包丁でさばく事が同じ行動だと思うでしょうか。
もしかしたら、活きのいい馬肉にそそられる人には同じかもしれません。でも
大抵は別で、馬の傍らに包丁があったからといって、
食する為にさばくイメージを直結させる人は全員では無いでしょう。

では、もっと分解してみます。
流通側と消費者側で完全に情報が分けられていたとして、
もしその肉の商品名が「食べ物A」で百年以上あり続けたとしましょう。
生まれてくる子供は「食べ物A」が何であるかも分からないまま、
それに罪悪感を感じるでしょうか。否です。

見せられたもの、聞かせられた言葉によって、私達は
知らず知らずのうちに振り分けをしてしまいがち。

例えば木々を伐採して何かを作る事一つを取っても、
出来上がった商品だけ長年見せ続けられていれば、それが本来
何であったかも知る由もなく善悪の振り分けは受け手には生じません。

私は自然が好きです。でも伐採と言う行動を否定する事はまた別で、
賛同も否定もありません。

善意と悪意、その意図そのものも何でもなくなり、
またその意図を汲む事も汲まない事も、その善意を有難がる事も、
悪意にムッとして自分の中に不穏さを感じる事もその発信者の狙い通りに
味わう事は可能ですし、その発信者自身の狙いを
そのまま同じポイントに投げ返す事もしばしばありました。

でもその意図を悪意と振り分け感じる前の段階で、
私自身が何らかの欲を持って個人としての種を撒いてしまっていた
のは事実。そしてその悪意を感情として
打ち消せなかった自分自身も確かに存在しました。

よほど運が悪くなければ、(悟る、という方向で見れば幸運にもなりますが)
元々の種を撒かない人に対して別の種を撒く人は発生しない気がします。
今日までの過程を精神的な収穫が大きかった事として、
今は受け入れています。

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