04/18の日記

01:14
自滅
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自分も含めた周りの構成で成り行きが決まってゆくのだとしたら、
むしろ周りの構成も自分だと言える。

それらが組み合わさって性格が出来たのだから。

つまり自分の身体を単位にして、表皮から内側が自分です、
とは言えない。

とすると要は
認識してしまうもの全てが自分だ、と言い換える事が出来る。

綺麗な風景を見て感動しているのが自分ではなく、
その影響を与えた風景すら自分。

これが自他同一だと思っている。

更に進めると
認識した生命を物質単位で捉えてしまう思い込みから
自分に取り入れたい、と思う衝動を恋だと感じている。

これは何も異性を対象にした話でも人間や生物を対象にした話でもない。

車に恋する。ヴァイオリンに恋する。
ジュエリーに恋する。洋服に恋する。

これらも一時的に作られたものを取り入れんとする衝動に感じる。

私は自分の感情の変化を省みるにあたり、恋はいずれにせよ心を揺さぶると思った。

プラスもマイナスも関係なく、増えたにせよ減ったにせよ
そのまま素直に定位置のゼロには戻ってくれない。

ちょっと動いただけでもその後、なかなかニュートラルには収まってくれない。

以上の実験結果からこう言えるであろう。

僅かな私欲がある限り、その僅か分以上は不機嫌になる。

ましてや愛猫や愛犬に先立たれて、いずれ天国で
お礼を言いたいと感じてるなら、それは幻の上に幻を重ねてるに等しい。

確かに可愛い。
でも、可愛いと思っているのは自分も含めて可愛いと認めているからである。

確かに別れを告げる事は可能である。

でも、用意された別離の舞台でさえ自分の願いが作り上げた幻想である。

つまり、別れを言いたいと思う感情すら
それまでの成り行きで造られたもの。

全てが消える。

視界上で滅びるのではなく自分の中だけで静かに消える。

理想郷も、光のイメージや影のイメージさえも。

自滅。
そしてこの「ジメツ」と言う語感さえ、
「自」と「滅」と言う全く語感の異なる音および文字が大多数の使用によって
それが保障となり、共通の言語として交換されてきたものである。

自滅。

この文字に感傷を感じる者が受け取る余韻も、その雰囲気の定義すらも
自滅。

そして再び書いたこの文字に感傷を全く感じないという当人内での認識すらも
自滅。

感じること、感じれないこと、そしていずれかへの共感も
すべてが自滅。

「あ」をどうして「ア」と読むのか、何故、そんな音を出し始めて定着したのか、
それに納得してるのか、考えないだけか、そしてそのどちらに対する私の印象すらも
自滅。

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