記念文
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シェリル・ノームが歌うには規模の小さなホール。聴衆をギリギリまで詰め込むために椅子を取り払い、入るだけ詰め込んだのだから、身動ぎするのも大変だろう。しかし人々の顔に不満の色はない。
戦時下にある今、人々の拠り所は政府でも軍でもなく…1人の歌姫なのだろう。リン・ミンメイを重ねる者も多いが、彼女は彼女だ。
彼女ほど強く歌を愛し
彼女ほど優しく歌を奏でる者を他には知らない。
『…アルトくん』
脳裏をかすめる1人の少女。ランカ・リーは最後まで辛そうに苦しそうに歌い…旅立ってしまった。そうさせたのは、それを望んだ自分。
ランカを思い出す度にアルトは強い罪悪感に苛まれた。
無理して笑うな
無理して歌うな
シェリルには簡単に言えたのに
嫌よ!あたしには歌しかないから
そう叫んで泣くシェリルを抱き締める事しか出来なかった。その歌が確実に命を削り取っているのに。
全曲を熱唱して、袖に引き上げた歌姫を今一度と熱望する
声
声
声
アルトは自分の事の様に気持ちが熱くなった。シェリルの命懸けの思いは確かに届いている。
反対側の袖にシェリルの姿が見える。淡いブルーのドレスに身を包んだ彼女が、アルトの姿に気が付き、その魅惑的な唇で自分の名前を奏でる。
この美しい歌姫の全てを自分は知っているのだと思うと、人々に対する訳の分からない嫉妬心を慰める事が出来た。
シェリルは微笑んで、アルトに敬礼した。アルトも敬礼で返し見送る。シェリルを輝かせる戦場に。
歓声が沸き上がりシェリルを心地よい陶酔に導く。
舞台に上がれば全てが無に帰す。間近に迫る己の死さえ
シェリルは感じるままに人々に語りかける。頭で考え準備された言葉など人々は望んで居ないと感じるから。その時々で変化する気持ちのままに思いのままに
「…あなたの大切な人は側に居ますか?その人のために歌わせて下さい。…」
アンコール曲は、確かダイヤモンドクレバスだったハズだ。
シェリルの歌唱力と表現力があってこそ心に響く難易度の高いバラード。
イントロが流れない事を疑問に思い、音響スタッフを見るとたわたわと慌てる様子が見えた。
『マジかよ』
物資不足な戦時下で、しかも金の動かぬチャリティーコンサート。スタッフも善意の素人なのだから無理もないのだが。
『…どうするシェリル』
ざわめく観衆をサッと上げた左手一本で黙らせて。シェリルは何事もなかった様に歌い出した。音響なしのアカペラで。
かろうじて生きていたマイクがシェリルの声を拾い隅々まで届ける。
人々の大切な人に語りかける様につむがれるメロディー。気持ちが入っているから言葉一つ一つに嘘がなく、故に感情の根幹を揺さぶる。
美しく伸びやかな声に魅力され生きる糧となり希望になる。人々が力ではなく歌を…シェリルを望むのは、力では何も解決しないと本能で感じているからなのかもしれない。
最後まで歌い上げたシェリルが、止まぬ拍手と歓声を背に帰って来る。
アルトの元に
固唾を飲んで見守っていたスタッフからも歓喜の声援が上がる。
ゆっくりと歩いて来たシェリルが、甘える様にアルトの首に両腕を絡めしなだれかかる。華奢な体を抱き締める。
「…すごいな」
「当然でしょ…」
あたしはシェリル・ノームなんだから。
シェリルは艶然と微笑んで、そう言い切る。アルトの耳元の髪をかき上げて、何事かを囁く姿に二人の関係が想像出来た。息を飲むスタッフをアルトは歯牙にもかけずにシェリルを抱き上げた。
不安げに見守るエルモに目配せして。歌姫を拐う。
「アルトちゃん!シェリルちゃんをお願いね」
アルトちゃんって
アルトは苦笑しながらも頷く。
言われなくともこれからは
俺のターン
なのだ。
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