「旦那、着きましたぜ!」

 かけられた声にはっと我に返った。
 いつの間にか、船は見覚えのある船着場に寄せられていた。
 太陽は西に傾き、射し込む日が水面に反射して眩しい。凌統は目を眇めて江を見る。甘寧もここを通ったはずだった。
 
 積荷の上げ下ろしの傍ら、船頭に礼を言って船賃を渡す。どちらまで、と訊かれて、谷の名前を答えた。

「そりゃあいい。ちょうど梅が見頃でさぁ。えっ? あ、いや、俺は行ったこと無いんですがね、なぁーんにも無ぇ土地だけど、その谷の梅だけは見事だって、こっから乗って来る連中は皆そう言うんでさぁ。さ、お気を付けて。旦那の足なら、夜までにゃ着けるでしょう」
 

 この季節に会うから梅の美しい土地を選んだのか、たまたま梅の美しい土地だったからこの季節に会うことにしたのか。甘寧の意図がどちらにあったのかはわからない。
 ただ、その谷の梅は、確かに見事だった。

 冬枯れの木々に閉ざされた山道を歩きながら、凌統は初めてその光景を見た時のことを思い出す。
 船の関係で、どんなに早く出たとしても着くのは日暮れギリギリか、その後になってしまう。初めて来た時はもう真っ暗だったから、それを見たのは次の日の朝だった。
 いつもは凌統が起きるまで放っておく甘寧が、珍しく急かすように名前を呼んだ。寝ぼけた目を開ければ甘寧はもう身支度を済ませていて、凌統に厚着するように言う。不思議に思いながら服を着て、促されるまま外に出た。
 
 ――目の前に広がった景色の美しさは、何にも譬えようが無かった。
 
 朝靄のかかる山間(やまあい)の小さな谷に、数百本はあろうかという紅梅の木が、満開の花を綻ばせて咲き誇り、芳しい香りがあたり一面に立ち籠めていた。
 
 
 山道はもう暗くなり始めている。
 ちらほらと見えていた人家も無くなり、夕闇のしんと冷えた空気が足元を支配する。この道を歩いていると、凌統はいつも強い不安に駆り立てられた。
 
 本当に、甘寧は来ているのだろうか?
 あの庵に着いて戸を開けても、中に誰も居なかったらどうしよう?
 ずっと待っていても、あの男が来なかったらどうしよう?
 あの美しい谷は、二人だけで過ごしたままごとのような時間は、本当に現実の出来事だったんだろうか?
 
 自由で居たいという甘寧の願いを、妨害したことは一度も無い。
 一度だけ、本当に一度だけ、明日には発つという夜に、どうしてか強烈に離れがたく感じて泣いてしまった年があった。その時ですら、行くな、の一言だけは決して言わなかった。
 バ甘寧。甲斐性無し。ロクデナシ。
 切れ切れの暴言に甘寧は何も言わず、困ったような顔でずっと凌統の髪を撫で続けた。
 
 自分の存在はもしかしたら重いのではないか、と。
 凌統はそう思わずにはいられない。
 傍若無人のようでいて優しい男だから、凌統に何かを言ったことは一度も無い。それでも、生き方の違いは厳然と在った。
 そうでなくとも男同士。逢瀬を重ねたところで子を成すこともできなければ、伴侶にもなれない。
 実際、凌統の元には近頃頻繁に見合いの話が舞い込むようになっていた。いつまで経っても身を固めようとしない凌統を案じた孫権や陸遜が、あれこれ手を回していることは知っている。煩わしいと感じつつも、申し訳ないとも有難いとも思っていた。
 いずれは妻を娶らねばならない。それは最初からわかりきっていたことだ。甘寧が凌統に対して必要以上に踏み込んで来ない理由もそこにあるのだと知っていた。
 一緒には行けない。なれない。
 甘寧と違って、凌統は今もこれからも孫呉の臣であり続けるのだから。

 わかっている。
 わかってはいる。
 
 それでも。
 それでも――

 
 寒さに手がかじかみ、耳が痛む。
 凌統は雑念を振り払うように一心に足を動かした。
 この道を抜ければ、そこには全てを忘れられる、世にも美しい世界が広がっている。
 

 紅が綻び、赤が匂う。
 夙く帰り来よ、と風が鳴る。
 
 それは百花のさきがけ、梅花の宴。
 朝靄にくるまれ夢を見る。
 
 夙く帰り来よ、と花が呼ぶ。
 

 ――いっそ走り出したいぐらいだった。

 
 









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