が綻び、赤が匂う 
 さびしい谷に春が来る
 夙(と)く帰り来よと風が鳴る

 それは百花のさきがけ、梅花の宴
 朝靄にくるまれ夢を見る

 花が待つ
 風が鳴る
 
 夙く帰り来よ 
 夙く帰り来よ




「旦那ぁー! そんな格好じゃ風邪引いちまいますよー!」

 遠くから船頭が声をかける。
 凌統は軽く手を上げて平気を伝え、枯れ木の目立つ山々に目を戻した。
 船はざぶざぶと江水を掻き分け、順調に進んでいる。
 夏には荒れることも珍しくない大河だが、今は冬らしく澄んだ空を映して穏やかに流れていた。
  
 吹きつける風は冷たかったが、気持ちが昂ぶっているせいかあまり寒さを感じない。
 馬の尾のように束ねた髪束が強風に靡いて、すっきりとしたうなじと、男にしては細い顎の線がさらされる。しなやかに伸びた手足と均整の取れた肢体。これから会う男に衰えたと思われるのが何より嫌で、天下が治まった後も鍛錬を欠かした日は無かった。久しぶりに手合わせがしたくて、荷物の中には得物も用意してある。軽く汗を流したら湯を使って、酒を飲んで、それから――
 
 それから後のことを考えて、凌統は頬が熱をはらむのを感じた。
 そう。
 本当は、顔を合わせた瞬間に手合わせなどどうでもよくなってしまうとわかっている。
 有無を言わさず性急に求められるのはいつものことで、堪え性の無い男をいかにも仕方ないといった風情で受け入れるのもまたいつものことだ。
 本当は凌統もそれを望んでいる。そうでなければ、良い年をした大の男が日も昇る前からまるで若い娘のように念入りに身を清め、髪を梳き、香を焚いて出て来た事実の説明がつかない。

 一年ぶりなんだから、と。
 
 前日から何度も唱えた言い訳を、凌統はもう一度繰り返した。
 


「何だか楽しそうっスねぇ!」
 
 強面に似合わず世話好きらしい船頭が、歯を見せて笑う。
 どうやら何か顔に出ていたらしい。凌統は小さく苦笑した。

「これから、一年ぶりに恋人に会いに行くんですよ」
「へぇ、どうりで!」

 本人にも、孫呉の誰にも言えないような台詞を行きずりの気安さで口に出す。深く詮索されないことがありがたかった。

 毎年、この季節になると、甘寧は船を下りて凌統に会いに来る。
 荷袋を一つ担ぎ、大地の感触を確かめるようにゆっくりと山道を踏みしめて、紅梅の咲き誇る小さな谷の小さな庵へとやって来る。
 凌統はその光景を想像するのが好きだ。
 あの男は、今年も先に着いて、凌統を待っているだろうか。
 日が暮れてから着く凌統のために、また梅の花を一枝伐って、部屋に飾ってくれているだろうか。

「うらやましいでさぁ、俺なんかカミさんにガーガー言われんのがイヤで、ついつい船で寝泊まりしちまうってのに」
「お頭ァ、そんなことばっか言ってっから、久しぶりに会った娘さんに『この人だれー?』とか言われちまうんスよー?」
「こらっ、こいつ、それは言うなって…!」
 
 近くで作業していた男が茶々を入れ、どっと笑い声が立つ。
 開けっ広げで気持ちの良い男たちは、甘寧とその部下たちを思い出させた。
 あの男は、一年に一度俺に会いに戻ることを、部下たちに何と説明しているのだろう? そんなことを思う。
 確かめたことは無いが、一部の男たちは凌統と甘寧の関係を知っている様子だった。
 
 男同士で恋人だの恋仲だの公言する気は全く無いが、自分たちの関係に名前を付けるとしたら、やはりそう呼ぶしかないのだろうと凌統は思う。
 親の仇。元水賊。荒くれ者で礼儀知らず。
 生まれも、育った環境も、考え方も生き方も、何もかもが違う男。
 本気で命を狙ったこともあり、何度も苛立ちを、哀しみを、怒りをぶつけた相手。そして、その都度全てを受け止めてくれた相手。
 愛憎は表裏一体だ、なんて一般論は言わない。あの男だからこそゆるせたし、あの男だからこそ惹かれたのだと思う。
 どうしようもなく結びついた運命が意味合いを変えて一線を越えた時、凌統の苦悩は終わりを告げて、後にはしみじみと沸き起こる喜びと愛おしさだけがあった。このことで不孝の息子と謗られるなら甘んじて受けよう。そんなことさえ思った。だが、甘寧は凌統と共に生きてはくれなかった。
 
 ‘根っからの根無し草なんだ、俺は’と甘寧は言った。
 ‘それって矛盾してない?’と凌統は笑った。ちゃんと笑えていたと今でも思う。
 
 旅立ちの朝は至極あっさりとしていた。
 見送りは凌統一人。男に別れを言いたかった人間は山ほど居ただろうに何も言わずに行くのかと、凌統はその無責任さだけをちくりと責めて、後は何も言わなかった。何を約束するでもなくその後ろ姿を見送って、後を追いかけて行く部下たちの背も笑って送り出した。
 どうしようもない寂しさを感じることはあった。男の肌を求めて疼く身体を持て余し、眠れない夜もあった。けれど日々はそれなりに忙しく、過ぎれば瞬く間のようでもあった。
 まだまだ寒い真冬のある日、何の前触れも無く、甘寧は帰って来た。
 呆気に取られて声も出ない凌統に向かってひらりと手を上げ、鈴を鳴らし、まるで昨日のことでも尋ねるように‘何か面白ぇことあったか?’と訊いた。

 どこかに小さな家が欲しいな、と言い出したのは凌統のほうだ。
 最後の戦で功を立て、きっちりと落とし前を付けて出奔した甘寧は、本人さえ望めばいつでも軍に戻ることができたし、実際出仕を求める使者も来たという。だが、甘寧はその話を断った。

 ――自由で居たいのだと。
 この広い悠久の空の下、船を駆ってどこまでも行ってみたいのだと。甘寧はそう答えた。数日留まったら、また出発するつもりだと言った。
 
 将軍として拝領した邸は既に返していたから、出発までの数日間、甘寧は凌統の邸に留まった。来客も多く人目もあって、落ち着いて過ごせたとはとても言えなかった。
 凌統は、どこか、都からも近く船でも寄りやすいひっそりとした場所に、隠れ家のような家が欲しいと言った。誰にも邪魔されず、二人だけで会う。数日なら休みも取れるだろうし、そうすればアンタも気を遣わなくて済むのにね、と。
 それは、単なる寝物語に過ぎなかった。睦み合った後の、甘やかな余韻に任せたくだらない戯れ言。

 翌年、やはり寒い寒い真冬のある日、大雑把な手書きの地図と共に小さな鍵が送られて来た。

 
 











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