花と嵐
□松は青く、牡丹は赤く
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忍術学園、四年は組の時友四郎兵衛は、はふと息を吐く。
此れはほぼ同時刻に保健室にて黄昏時忍軍忍組頭が溢した溜め息とは質の違う、呆れと疲れの混ざった正しく嘆息であった。
「次屋先輩、見っけ」
その嘆息混じりに出された声は、数年前にはあった辿々しい響きは殆ど無くなっている。代わりに、本人の容姿も相まって何処か朴訥な印象を加えていた。
四郎兵衛がそう声を掛けた、数歩先にあるのは一軒の茶屋。その軒先、少し奥まった所に置かれた縁台。
幾つかの町や国境に繋がる峠の茶屋は、多くの行商人や旅人が集まり賑々しい。
その、行商人達の一団の頭の向こう、静かに茶を啜る僧の隣席に、旅芸人達の集団がある。其処に、四郎兵衛の目当ての人物が混ざっていた。
様々な談笑、談合飛び交う中に、四郎兵衛の「次屋先輩、見っけ」は掻き消された様に思えたが、然して、その人物は四郎兵衛の方を見て、「見っかった」と、へらっとした笑いを浮かべたのであった。
四郎兵衛はそれにまた、はふと嘆息しながら、己の所属する体育委員会の先輩である五年ろ組の次屋三之助の元へ足を進めるのである。
「金吾はどうしたよ」
四郎兵衛を前にして三之助はそう問う。芸人達は「おや、お仲間か三の字」と四郎兵衛と三之助を見比べた。
「弟だ」と、三之助がそれに答えれば、四郎兵衛に向けられるのは親しげな笑顔だ。
「金吾は、チビ達連れて山にいる。『兄さん』は何時から芸人になったのだか」
三之助の隣の男から差し出された酒の杯をやんわりと断りながら、四郎兵衛は袖をたくしあげて三之助の目元の紅を強引に拭った。
三之助は大人しくされるがままとなっている。その体躯は学園最上級生とも遜色の無いというのに、全く幼児の様な素直さ。この次屋三之助という男は此れだからと、四郎兵衛は苦笑する。
「気が付いたら此処にいたからなあ。んで、この人らの一人が怪我したらしくって、さっきまで助っ人してた」
袖を退かせば、化粧は落ちて馴染みの先輩の顔が現れる。少し奥に座った、脛に包帯を巻いた男がにこやかに頷いた。
「いや、全く中々の放下じゃった」
「おうおう、体も大きいし声も悪かない。三の字は百姓にしとくんは勿体にゃあで」
「まこと、まこと」
芸人達はどっと沸き立つ。酒も入っているのか、元からの気風もあるのか、音声は高らかで、鼓を打ちながら今にもまた躍りだしそうである。
「四郎兵衛にも見せたかったなあ。俺、格好良かったんだぜ」
四郎兵衛は、また苦笑する。
「楽しそうで良いけど、早く帰らないと金吾が泣くよ」
「チビ達に振り回されてな。って訳だおっちゃん達。お迎えが来たから俺は行くね」
三之助が立ち上がれば、乳飲み子を背負った女が寄ってきて、四郎兵衛と三之助に饅頭の包みを差し出した。
「お銭じゃにゃあて悪いがね、御礼だで貰っておくれ」
三之助は「ありがと」と人懐こい笑顔で受け取り、四郎兵衛はひょんと頭を下げる。芸人達に手を振られながら二人は茶屋を後にするのだった。
そのままざくざくと、歩いていく四郎兵衛の手はしっかと半歩後ろにいる三之助の腕を握っている。「心配しすぎ」と、三之助の笑いを交えた声に、四郎兵衛はにっこりと振り返った。茶屋は既に、豆粒程の大きさになっている。
「次屋先輩の前から勝手に道が消えてしまう事が無いのなら、僕だって心配しませんよ」
「うん。何だって勝手に妙な場所に行かされてしまうんだろうなあ俺って奴は」
「とにかく急いで戻りましょう。先輩は本日は委員長代理なんですから」
体育委員会委員長、六年い組の平滝夜叉丸は、六年合同の山間での野戦実習で忍術学園裏々々山に出払っている。
残りの体育委員達は数日後に行われる三年生の実習に向けての試走中であった。途中までは順調であったものの、先頭を走っていた筈の本日限りの委員長代理が何時の間にやらいない。体育委員会及び、次屋三之助お馴染みの『無自覚な方向音痴』が発現したのである。
四郎兵衛は近くにいながら、ぐずりだした一年生に気を取られ、道無き道を走り去る三之助をあっという間に見失ってしまった。故に、責任を持って、三之助の捜索に今の今まで走り回っていたのである。
「やっぱり縄使いましょうか」
「俺にも面子があんだけどな。せっかく滝夜叉丸の趣味だってチビ達にも思わせてんのに」
そう。彼等の普段の活動では、三之助の方向音痴対策として全員が輪にした縄に纏まり走っているのだが、今日はそれを強いる委員長の不在を良いことに、三之助は縄も無しに走っていたのである。
その判断も甘かったなあ。と、四郎兵衛は独り反省する。三之助ももう上級生なんだから、多少は改善されているだろう等と思ってしまっていたが、改善処か、その体育委員会の上級生たる並外れた身体能力が合わさり寧ろ昔より悪化したのでは無いだろうか。
委員会で関わる己がそう思うのであるから、普段からも共にいるあの先輩の苦労は如何ばかりか。
「普段からも富松先輩に時折繋がれている癖に今更面子も何も無いんじゃないですか?一年生達ももうその話は信じちゃいませんからね」
「四郎兵衛ったらキッツいのな」
昔は可愛かったのに、等と冗談混じりに宣う三之助に、四郎兵衛は、「それは滝夜叉丸先輩こそがずっと思っている事なんだなぁ」と胸中で独り言ちる。この感覚は体育委員会の伝統なのかもしれない。否、自分には当て嵌まらないだろうが。
嘗ての『阿呆のは』に匹敵する程の大物揃いの一年生を前に、今もおろおろとしているだろう後輩、三年は組の皆本金吾を思い、四郎兵衛はひっそりと笑う。金吾だけは昔から変わらない。真面目で可愛い己の後輩だと、四郎兵衛は思っている。
「何独りで笑ってんの」
「いえ、別に……ところで次屋先輩、」
懐から縄を取り出せば、三之助は素直にその輪の中に入った。
「茶屋は楽しかったですか?」
四郎兵衛がそう聞けば、三之助はニヤリと笑う。
「色々と小耳に挟んできた。滝夜叉丸に聞かせたらまた煩くなりそうだ」
そう態とらしく、肩を竦める三之助。年々無自覚なのかそうでないのかが曖昧になってきているのが、この男の恐ろしい所だと、四郎兵衛はその歪んだ笑いに、真綿の様な柔らかな笑みを返すのであった。
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