花と嵐

□迷いて、揺らめいて
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 少しばかし気が重たい様な感覚を押し込めて、富松作兵衛は武道場へと向かう。何とは無しに部屋から持って来た木刀で軽く肩を叩きながらのっそりとした足取りで歩く様は、眉間に皺を寄せた表情も相まって一見、彼を、ふてぶてしく柄の悪い人物に見せていた。事実、運悪く彼と通りすがる後輩達は、特に下級生達は野犬にでも行き逢ったかのように作兵衛を見て、あからさまな者達はそそくさと踵さえ返すのだった。それが三、四回も続けば、『気にしぃ』の作兵衛は、何やら自分が後輩から怖がられているらしい事に気付き、猫の子の様に走り去る一年生の背中を見て溜め息を吐くのだった。そも、彼は外見こそは短気で気が強そうであるが、その内面は狂暴な野犬というよりも柔和で繊細な雌鹿に近いのである。
 染み付いた様になってしまっている眉間の皺を、指で撫で擦りながら、作兵衛は再び重たい足取りで歩き始める。

 遅々とした歩みも繋いでいけばやがて目的地に着く。当たり前の話であるが、後数十歩、目と鼻の先に武道場が見えてきた途端、作兵衛の眉間に再び皺が戻って来た。
 そも、凪雅と話すと言っても、何をどの様に話せば良いのか、この期において皆目検討も着かないのである。凪雅の有り様には疑問がある、胸につかえるような引っ掛かりも感じている。それは憂いに近いが、そんな自身の感傷を、あの身も心も高潔な獣の様な彼女がどう思うのか。
 馬鹿げていると一笑されるかもしれない。非礼であると怒るかもしれない。どう転んでも理解されそうに無い気がした。作兵衛自身ですら、自分が結局のところ凪雅にどうあって欲しいのか今ひとつ定まっていないのだ。
 やはり、引き返そうか。もう少し、後少しだけ、自分で良く考えてからでも構わないだろう。

 そう、迷いながらも、じりじりと踵を返そうとした作兵衛は、然し、次の瞬間、けたたましい音に思わず飛び上がった。
 なんだあの音は。と、作兵衛は武道場を振り返る。何か激しく床を打ち付ける様な音。試合でもしているのかと思いもしたが、その割には掛け声等は聞こえてこない。
 尚も、作兵衛はどうすべきか迷ったが、結局は心配と好奇心が勝った。
 武道場に向き直り、入り口へと向かう、勢いに任せようとしてか、足は勝手に小走りになり、半ば転がり込むようにして武道場に入るのであった。

「凪雅! いるか!?」
「うわっ! 富松先輩!?」

 さて、武道場には、思っていた通りに凪雅がいた。然し、予想外がひとつ、

「お、おお……金吾」
「ど、どうも」

 二つ下の後輩が、肩を竦めるようにしながら頭を下げる。
 凪雅はその背後に立ち、あの鋭い眼差しを作兵衛に向けていた。

「驚かせてすまんな」
「いえ、別に」
「何用だ作兵衛。その様にあわてふためいて」

 凪雅が問いかけてくる。だが、作兵衛の薄く開いた口からは途端に言葉が出てこなくなった。凪雅は、何時もの憮然とした表情。怪訝そうに片目を僅かに眇めているのが睨まれている様で、作兵衛は目を逸らしたいのを堪える。何をそんなに恐れる事がある。と、作兵衛は掛けるべき声を考えながら凪雅を見返した。
 ふと、凪雅の表情が動いた。厳めしく固まった様なそれが、ゆると、崩れる。

「はて、儂はお前を何か怒らせたろうか」

 眇めるよりも、力無く柔らかく細くなる眼、張り詰めたような頬が緩み、口の端が僅かに上がる。
 それは苦笑いであった。
 然し、苦笑いでありながらも、何時もの獣が牙を向いたような無理に顔を歪めた様なそれよりも、ずっと柔らかい。
 大袈裟ではあるが、それはまるで、羅刹がいきなり観音になったかの様に、作兵衛には見えた。喉がひくりと動いたのは、驚きのせいか。

「い、いや違う。何も怒っちゃいねぇ」
「では、何故そう睨み付ける」
「……悪い、睨んでるつもりは無かった」
「だろうな。目付きの悪さは儂も他人の事を言えん……で、何用だ」

 金吾が、遠慮がちに凪雅と作兵衛を見比べ、そろ、と動き出す。

「あの、私、蛞蝓を届けに行ってきます」
「蛞蝓?」

 金吾の掌を見てみれば小さな蛞蝓が乗っている。奔放さを人の形にした様なあの後輩のふにゃっとした笑みが作兵衛の脳裏に浮かんだ。
 金吾は部屋の隅に転がっている木刀を拾い上げると、軽く頭を下げてそそくさと武道場を出ていくのだった。

 何やら、変な気を遣われた様な気がする。と、作兵衛は金吾が立ち去った武道場の入り口を振り返り顔を引き釣らせる。

「此処には蛞蝓を飼う奴なんぞおるのか」
「ああ……俺の委員会の三年生」

 凪雅は、すん、と鼻を鳴らした。

「何用かは知らぬが、それは飾りでは無かろう。どうだ、ひとつ、打ち合うてみるか」

 凪雅はまだ微かに観音の名残のある笑みを浮かべながらも、不敵な眼差しを作兵衛の手にある木刀に向けるのであった。

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